<公共哲学と主体の形成>

制作日:2005年2月28日


2004年夏学期に開講された講義の最終評価レポート。アイデンティティ論と
同じ教官の手になる講義であった。レポート内容はまたも講義内容を半ば無視
していたが、教官が公共哲学の創出を唱えている人であるから、それなりに興
味を惹くテーマ設定であったかも知れない。評価は優。

レポート内容は「個人」という概念型思考を前提とする自由主義や科学主義を
批判し、個人の内面性に着目した解決策を示すというもの。個人の内面に注目
せざるを得ないが、その個人の内面に対して価値判断を下すことの困難を論じ
ている。実に歯切れが悪いが、この歯切れの悪さは本質的・回避不可能な性質
のものであると言いたいらしい。

それにしても「自分引用」が増えてきている。私は学術論文が他の論文を引用
することの意味をいまいち納得できていないが、少なくとも学問的論文におい
て、自分が書いた論文を引用することは、あまり多いと「変なこと」であると
認識されるようだ。曰く「自分の論文を自分で引用して引用数を稼ぐ」云々。
他人の話に耳を傾けないで知的活動などあり得ないとはよく聞く。反論もしに
くい。が、どうも納得できない。他人の言葉を読み、それを引用して、それで
真実性が増すのか。何かが発展するのか。本当に他人の論文は真実なのか。そ
れをそのまま理解できるのか。引用がきちんと論文の中に収まるのか。私は過
去の思想家を一人たりとてまともに理解し得る気がしない。自分すら理解しが
たいのに、どうして他人が理解できよう。その人自身の思想がブレており、そ
の解釈者が十人十色の解釈を提示しており、翻訳者が大量の誤訳を含みつつ翻
訳した著書を、必死に何日もかけて読み解き、さて、一体どのような成果が得
られるのか。同じ時間を思索に費やすより有意義なのか。




<もくじ>

  1. 公共哲学はどうあるべきか
  2. 現代における主体の問題
  3. 公共性を担う主体の育成
  4. まとめ


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