*1) 無意味な註だったので、Web掲載段階で削除した。
*2) これを以て「理念は確かに死んだのであり、理念に代わって欲望が正当化されたのだ」と述べることも出来よう。「科学主義とは理念の不在なのか理念の過剰なのか」という問題は、要するに用語法の問題に過ぎない、とも言える。重要なのは、実は科学主義とロールズらの正義論に共通性があるという点である。
*3) 一方で、科学主義とロールズが違う点は「権利」というものを考慮するかどうかであろう。科学主義は政治的目標の達成を追求するが、ロールズの理論は、加えて「最低限達成されなければならない目標」を設定する。
なお、本註は○○氏のコメントに基づいて考案されている。氏はかつて講義において「ロールズとノージックはともに権利を主張する点で功利主義とは一線を画す」と述べた。ここではノージックを語らず、また功利主義を科学主義に置き換えられると考えた。
*4) 教育を強調した場合、やや問題が生じる。すなわち本レポートは自由の重要性を強調する立場を「主体は既に賢いという前提」を持つものとして批判するが、教育とは「主体は未だ賢くない」という前提に基づく活動だからである。この点は先学期提出レポートに参考として添付した「現代社会論1(都市論・消費社会論)課題レポート」で以下のように論じた。
個人主義は人間を「既に賢い存在者」と考える点で、啓蒙(それは人間が初めは蒙昧であることを前提とする)と相容れない思想であり、人間の現状を肯定する、人間の成長の必要性を否定する思想である。この思想と現実の齟齬を埋めるために、「子供」は未完成の個人と規定され、教育によって選挙権獲得までに啓蒙し終えることが追求される。
*5) 「民主主義の成立以来、政治は永らく階級間対立として描かれ、主権者は保守か革新かという大まかな方向性のいずれかを選ぶことで、深い政治へのコミットが可能であった。しかし今日、殊に日本においては保守/革新という枠組みが曖昧になり、政治そのものが全体を通じた保守・革新の二択から、多くの細かい論点に対する無数の(しばしば何が違うのかさえよく分からない)選択肢からの困難な選択問題、あるいはそもそも選択肢が明確に呈示されない、答えを創作せねばならない問題へと変貌してしまった。すなわち政治に主体的に関わるために必要な知的水準が大幅に向上してしまい、従って政治参加のコストが膨れあがってしまった。一方で社会集団が安定化することで、政治的主張をそこまで強力に行わなくても、それほどの不利益は被らないようになり、政治参加のベネフィットは縮小する傾向にある」
*6) 「現代社会論1(都市論・消費社会論)課題レポート」で以下のように論じた。
人間は事ある毎に選択を行い、善い結果を引き寄せようとする。しかし、そもそも「幸福」「善」とは定義が困難なカテゴリーであり、深い精神の活動の中からようやく定義されてゆく。従って人間の人間としての精神の成熟が拒否されたとき、幸福は最もプリミティブなレベルに退行する。その結果が身体性に密着した快適性の追求ではないかと考えることができる。すなわち「大きな物語の終焉」によって人々は個人的な事柄に興味を向けるようになったかの如き説明が為されることがあるが、これは必ずしも正しい事ではなく、現実には「社会的善といった事も考えれば考えられる能力を持っているのだが、大きな物語が終焉を迎えてしまったから、もう考えないことにした」というより、「もはや社会的善について考えるほどの精神活動を行っていないので、考えたくてもまともには考えられない」という事も多いのではないか。
人々はこうして最もプリミティブな幸福としての身体性に密着した快適性や、善とは何かという問を留保したままでも、善の内容が分かったときには、いつでもそれを贖い得るという保証、すなわち貨幣を追求し始める。
*7) 「現代社会論1(都市論・消費社会論)課題レポート」で以下のように論じた。
近現代を画するものである個人主義という思想は、恐らくこの精神の二つの性質のうち前者と深い関係を有している。すなわち、本来我々の身体とは物質とエネルギーが出入りする開放系であるが、精神はこれを「私」という言葉で分節し絶対化する。ここに民主主義を擁護するために戦略的に導入された「人間は皆等しく賢い」という思想(反王権闘争のための、王権神授説に対抗するプロパガンダと言うこともできよう)が絡みついて成立したのが「個人は既に賢明な存在者であり、自己に属する事柄について他者から完全に独立した選択権を有する」という思想、すなわち個人主義であったろう。
この個人主義が、現代都市民の歪んだ欲望の一つの源泉になっているのではないかと思われる。すなわち、個人主義は人間を「既に賢い存在者」と考える点で、啓蒙(それは人間が初めは蒙昧であることを前提とする)と相容れない思想であり、人間の現状を肯定する、人間の成長の必要性を否定する思想である。この思想と現実の齟齬を埋めるために、「子供」は未完成の個人と規定され、教育によって選挙権獲得までに啓蒙し終えることが追求される
*8) イスラム革命後のイランを考えると良い。イランはイスラム革命当時においては押しも押されもせぬ中東の大国であったが、イスラム革命後の経済低迷の結果、GDPに関しては後発のトルコに抜かれた。現在イランの選挙における投票率は低迷しており、一部には、この投票率低迷が単なる政治的感心の低下ではなく、積極的な選挙ボイコットを意味しているという見解もある。
「賢明なる主体」であるイマーム達の失敗を、イラン民衆は認められない。失敗した以上は、イマーム達とて「愚かな主体」なのであり、指導者の失敗は「指導者は愚者であった」という認識と、指導者の交代によってのみ許容される。諸主体の主観において、指導者が失敗することと、指導者が賢明であることとは、相容れない。
*9) (*6)引用参照
*10) 「現代社会論1(都市論・消費社会論)課題レポート」で以下のように論じた。
現実としては内面に暗箱を抱え、他者との深い関係を取り結べず、年相応に成長せねばならないにも関わらず理想像を持てないで苦しんでいる若者がいる。本レポートのこれまでの文脈から提起される処方箋は、当然の事ながら成熟の復権である。人間はゲマインシャフト的社会集団を持つ必要があり、その中で人間は都合のいいフィギュアとしてではなく、根本的に交流が困難な、それぞれに差異を持ち暗部を持った人間として扱われなければならない。
しかし、それで解決とするわけにはいかない。既に見たように、成熟の拒否の源泉には民主主義など、一概に否定して終わることのできない重要な思想があるように思われるのである。また都市空間を他から峻別されるものとして設計することは空間の消耗につながると述べたが、そうは言っても我々は別世界の形成・体験という欲望を捨てることはできない。
おそらく脳の機能には二つの要素がある。末端の奴隷として入力に対し適切な値を返す関数としての機能と、末端を恨む自己準拠的精神の座としての機能である。本レポートでは前者を身体の延長と考え、後者は身体から離脱し、身体が今在る空間・状況から離脱しようと目標を設定し、それに接近すると考えた。後者の機能が非場所、非人間を志向する端緒であり、本レポートが批判的に描いたが、実際は二つながら人間に必要な機能であり、両方があっての人間である。
恐らく我々は結論を得ることはできないのであろう。
*11) Bradley Richardson著『JAPANESE DEMOCRACY: Power, Coordination, and Performance』において紹介されている考え方である。
*12) もっとも、これは特定のパソコンやサーバ、契約を特定するものであって、インターネットカフェなどを利用すれば回避できる不完全なものである。まだまだ検討の余地がある。
*13) 「学問とは図書館・大学に籠もって、俗世間との交わりを断って禁欲的に行うべきものだ」といった考え方の中に極端な形で現れているイメージを指す。
*14) 「人間の質」という言葉は、そもそも人間に上等な者・下等な者といった区別があることを前提としているようで気持ちが悪いが、かといって愚かな判断を下す人間というものが実在することは否定できない。公共哲学の立場の弱さと相まって、なんとも落ち着かない。
*15) (*7)引用参照
*16) 現状のシステムを前提としない場合、「生涯学習」という可能性が見えてくる。ただし、現在日本において普及しつつある「生涯学習」のイメージでは、学習内容は、たとえばNHK教育テレビで毎夜放送される趣味的な内容や、歴史・経済といった事柄の知識が中心であり、「主体を育てる」といった側面をもつものは皆無のように思われる。また大人が大人に政治理念を吹聴するといえば、語り手が一方的に語り、聴衆は盲目的に従い踊らされる、といった事が多いようである。かつてのファシズム然り、今日の新右翼然り。
*17) 「個人アイデンティティの貧困な者は容易に一つの集団アイデンティティに囚われる危険性を有している。これが『癒しとしてのナショナリズム』が容易に人々を捉えた理由ではないか。アイデンティティ確立においては、できるかぎり多様な集団アイデンティティに帰属しつつ、同時に集団アイデンティティ以外の個人アイデンティティの構成要素も充実が図られねばならない」
*18) 聾者のカップルが子供を産んだときに、両親は子供を聾者として育てることを希望するが、他の親戚や主治医などが人工内耳手術を主張するような場合である。本レポートは、ある判断が正しいということは公共性の中で承認を通じてのみ可能であるという形で、価値判断を共同主観の問題としている。この論法を敷衍すれば、聾者の子供が人工内耳手術を受けるべきかどうかも共同主観において決定することになるが、社会的なコンセンサスと、個々の親、親戚がどう感じるかはまた別の問題であり、本レポートでしつこく述べているとおり、コンセンサスを形成する社会がどこまで信頼できるか、愚かな大衆の判断でないとどうして断言できるかという問題が残される以上は、個々のケースにおいて親権者が社会的コンセンサスに反する行動をとったとしても、なかなか止めることは難しい。裁判になれば一応の判決を出さねばならないが、苦しい判決となろう。また、そもそもこの問題について社会がコンセンサスを形成できるかどうか、疑わしい。また、この問題について聾者でない者に発言権があるのか。ある判断の正当性の問題。ある社会的決定に参与すべき有権者の範囲の問題。問題は山積みである。本レポートの能く扱い得るところではない。
*19) 今は戦略を転換したが、しばらく前のマクドナルドのハンバーガーは、薄利多売戦略を追求した結果、実に不味い代物になっていた。しかし、世のサラリーマン達は「安いから」と昼食をマクドナルドのハンバーガーと、コンビニで購入したお茶で済ませた。彼らはマクドナルドのハンバーガーをたいへん素晴らしい文化として消費していたのか、どうか。良いと思わなくても享受することがあるとは、こういった事である。
もと東大総長である蓮實重彦氏はヘビースモーカーである。煙草は明らかに健康に悪い。彼はなぜ喫煙習慣をやめなかったのか。さらには煙草を吸い続けることを宣言する挑発的な文章を雑誌に載せたりしたのか。文化の善悪と健康への善し悪しとが一致しないとはこういった事である。
もちろん「煙草は明らかに悪である」といった反論もあろうが、ここでは各自の意見を云々するのではなく、善悪という判断が非常に曖昧で、ぶれることがあり、また尺度が単一ではなく、しばしば捻れが生じるという事実を確認しておきたい。
*20) 「個人アイデンティティの内容とは自分が如何なる集団に属しているかという内容のみならず、個人的な信念・思考法・善悪に関する判断・自己の正当性に関する言説をも含み、個人アイデンティティの「底」を形成していると考えられる」
*21) 「現代社会論1(都市論・消費社会論)課題レポート」で以下のように論じた。
ところで、成熟とはそもそも何か。一般的には経時変化によって価値が増大することと定義できようが、これでは曖昧に過ぎる。人間における成熟の定義は困難だが、ここでは乱暴を承知の上で「ゲマインシャフト的組織の運営能力を高めること」が成熟の重要な一要素であるとして考察を進めたい。すなわち家族をはじめとする人間関係の処理が巧みで、そうした集団を守り育てる支柱となる者、周囲の幸福を保証する者のことを、経時変化によって価値を高めた人間、すなわち成熟した大人というのではないか、という事である。
個人主義はゲマインシャフト的・習俗的組織の構成員がしばしば互いに干渉しあうことを嫌い、組織をゲゼルシャフト的に運営せんとする。社会集団は自由意志に基づき結成され、解散される。ゲマインシャフト的な人間関係を細やかに調整して安定をもたらす能力は磨かれない。
*22) DVD百科事典「スーパーニッポニカ」(小学館2003)「自然法(小林公 著)」の項目に以下の記述がある。
自然法論の理論的問題点は、自然的に妥当する規範が存在するという思想、すなわち人間や社会のある種の本質的構造が同時に規範的意味を有するという思想にあり、論理学的にみれば、事実から規範が導き出されうるとする、事実と価値の一元論にある。このような一元論は、規範命題と事実命題を論理的に架橋不可能な命題とみなす論理学上の通説により否定されており、またこのような論理的な問題以外にも、現代の法文化においては、法は特定の社会目的を実現するための手段として道具主義的にとらえられており、社会システム全体の下部システムとして一定の社会機能をもつ操作的に変更可能な制度として機能的にとらえられている点も、自然法論衰退の要因と考えられる。
良い引用文献を見つけられず、仕方なく立命館大学の立岩真也氏のホームページ「arsvi.com」から引用した。2001年6月23日のリバティセミナー「障害学の現在」第3回「盲ろう者と障害学」講演記録からの引用で、記録は「松波めぐみ」とある。
福島智(東京大学先端科学技術研究センター)
http://www.arsvi.com/
<参考文献>
『スーパーニッポニカ2003DVD』小学館 2003
『JAPANESE DEMOCRACY: Power, Coordination, and Performance』Bradley Richardson Yale University Press 1997
『国土論』内田隆三
<参考レポート>
「現代社会論1(都市論・消費社会論)課題レポート」拙著
「比較社会思想(アイデンティティ論)課題レポート」拙著