1.ふたつのアイデンティティ?

 講義において○○氏は、公共哲学に理念・現状分析・実現可能性の三側面が必要
であると主張した。本レポートは、この見解を支持した上で、理念の側面について
考察を加えたい。

(1) 自由の強調は理念たり得るか?
 理念面について考えると、政治学・経済学両分野における科学主義の繁茂に対す
るアマルティア・センやロールズらの活動を、「理念不在から理念の復活へ」とい
う一つの流れとして描き出せる。しかし別な見方も可能である。すなわち、政治学
も経済学も何らかの理念がなければ学問自体の存在意義が失われてしまう。現実に
対して取るべき(=理念を実現するような)アプローチが存在するからこそ、その
アプローチを解明するための学問が要請されるのである。まったく理念が無いなら、
理念の実現のために行動する必要もなく、従って何かを考察する必要もない。
 つまり政治学・経済学における科学主義とは、決して「理念不在」ではないので
ある。政治学・経済学における科学主義に理念上の問題があるとすれば、それはむ
しろ「理念不問」による「誤った理念の採用」である。では科学主義が理念を不問
にし、恐らくは個々の政治主体・経済主体に任せ、放任したことは、如何なる結果
を生んだのか。
 理念を問うまでもない事として、各主体に放任することは、何が好ましく何が好
ましくないかという事を、各主体がすでに知っているものと考えることに他ならな
い。各主体が既に持つ選好をもって理念と為したのである。あるいは、各主体が各々
の選好を追求する状態を以て良しとするような理念が採用されたのである。(*2)
 そして、ここで問題が生じる。先程はロールズを「理念の復活者」として見る事
ができると述べたが、ロールズは本当に理念を復活させたのか。○○氏の講義時の
解説によれば、ロールズは自由権を第一の重要事とし、第二に社会権を置く。また
社会権の中でも機会均等を優先し、しかる後に社会的弱者への福祉を語る。しかし、
自由を与えられれば人間は良くなる、という発想は、人間は既に自己を処するべき
途を知っていると考えている点で、科学主義と共通するものがある。(*3)アマル
ティア・センも自由に重きを置く点は共有している。(*4)
 自由を与えられたとき、諸主体は賢明に振る舞うであろうか。たとえば政治的な
テーマに関して言えば、主体的な政治参加のコストは増大し、ベネフィットは縮小
する傾向にあると先学期のレポート(*5)で論じた。これが正しければ、有権者と
いう政治主体は政治的自由を主体的に行使する能力を刻々と失いつつあると言えよ
う。またタンス預金の増加・消費低迷とは、経済的自由を行使すべき対象を、人々
が見失っているという事ではないか。(*6)主体は自由を行使できない「大衆」と
化しているのではないか。自由を強調したところで、人々は理念を持ち得ないので
はないか。自由を強調することで理念を獲得できるのは、「自由を拡張する」者だ
けであり、「自由を行使する」者は呆然とするしかないのではないか。

(2) 理念は語り得るか?
 諸主体に理念を放任することに対置されるものとして、すぐ思いつくのは「諸主
体を教導する」パターナリズムであろう。しかし、ここにはより根深い対立が存在
する。「自由放任/パターナリズム」という主義の対立の背景には「賢い主体/愚
かな主体」という主体観の対立がある。そして、普通選挙に基づく民主主義は、主
権者が投票行動に際して正しい選択を行い得るだけの賢さを持っているという前提
を持っている。(*7)すなわち、ここで現代の政治的・経済的諸主体を「愚かであ
る」と認めることは、民主主義の前提を掘り崩すことに他ならないのである。
 無論そのようなことは肯定できない。なぜなら、仮に政治的・経済的諸主体が愚
かであったとしても、それを教導すべき「賢い者」とは何者なのか、教導者を如何
にして発見できるのかという問題に直面せざるを得ないからである。すなわち、
「愚かな主体」を前提として理念を語り得るためには、まず第一に「賢明な主体」
がどこかに存在し、かつ第二に、愚かな諸主体がこの「賢明な主体」を賢明である
と承認し、この主体の示す理念(政治的正義とは何か、経済的正義とは何か、と
いった言説)を受け容れなければならない。しかし、この「賢明な主体」と見なさ
れる人物が、どうして間違いなく「賢明な主体」であると断言できるのだろうか。
また、仮に「賢明な主体」を特定できたとして、愚かであることを前提された諸主
体が、どうしてこの「賢明な主体」を承認し、従うことが出来るであろうか。また、
仮に「賢明な主体」が特定され、「愚かな諸主体」がこれを承認したとして、仮に
「賢明な主体」の判断に誤りがあったとき(無謬の存在などあり得ない)諸主体は
どうしてこの誤りを受け容れ得るであろうか。(*8)判断を誤る主体は「愚かな主
体」であり、無謬の存在などあり得ない以上、すべての主体は「愚かな主体」であ
ると考えるより他ない。
 従って、政治的・経済的諸主体を教導する、特権的な「賢い主体」を求めること
は難しい。

(3) 求められる公共哲学 〜公共空間における理念の創造〜
 我々は賢者に期待することはできない。我々は一般的主体を前提として公共性を
創造せねばならない。しかし一般的主体は、自由を行使し得ない「大衆」へと零落
する危険を常に孕んでいる。「自由」の名のもとに一般的主体を放任して社会を動
かしむるわけにはいかない。つまり一般的主体に既製品の理念を押しつけるのでは
なく、また一般的主体が既に持つ理念を放任するのでもなく、一般的主体によって
構成される公共空間において理念を創造せねばならないのである。従って、もし公
共哲学に理念・現状分析・実現可能性の三側面が必要であるとするならば、公共哲
学は自己完結的に理念を論ずるばかりではなく、公共空間において理念を創造する
中核としての機能を担わねばならない。そうでなければ、公共哲学の実現可能性も
また危うくなるであろう。