では公共哲学は具体的にどうあるべきなのか。これを具体的に論じることは本
レポートの手に余るが、基礎的な考察を行おう。
前章で公共空間における諸主体参加の上での理念創造の必要性を説いたが、先
学期提出の参考レポートで論じたのは「現代において主体の精神は理念を論じ得
ないレベルに退化しつつある」という事であった。(*9)そして、この退化は近
代の個人主義とも関係し、問題含みでありながらも民主主義の前提と関わり、否
定しがたい人間の一部である、と述べた。(*10)おそらく現代の諸個人が「理
念の考察」などという難渋な思考から逃避するモーメントはどうしようもないも
のであり、この問題に関する「最終的解決」などというものは存在しないのであ
ろう。
諸個人を理念・価値に関する考察へ向かわしめる圧力としては、教育が考えら
れる。教育カリキュラムの中に占める公民・現代社会のウェイトを増す、といっ
た方策が考えられるであろう。しかし、教育そのものが崩壊しつつある現状では、
教育カリキュラムを設計する文部科学省、各学校職員の能力が信頼できず、実際
のところどれだけの効果が期待できるかは疑問である。公共哲学が公共性を創出
するにあたり、公共性の担い手である市民、また市民を育てる教育の現状は、看
過できない問題であると言えよう。
また政治参加のコスト増大、ベネフィット縮小については既に述べた。この問
題を解決すべく、選挙シーズンにはアイドルを起用したポスターや、なぜか小学
生に描かせたポスターなどが街に溢れるが、これらがはかばかしい成果を上げて
いないことは見ての通りである。意識向上キャンペーンも良いが、政治参加のコ
スト&ベネフィット計算に注目する必要があろう。コスト増・ベネフィット減は
政治状況の変化による、やむを得ない趨勢であろう。そうであれば、コスト増大・
ベネフィット縮小に対応した新しい政治参加の在り方が模索されても良いのでは
ないだろうか。一つの可能性が「懲罰型投票行動(*11)」である。人々はデモ
行進や普段からの投票行動によって政治参加を行うのではなく、基本的には現政
権を支持し、現政権が明らかに自己の利益を大きく侵害するとき(つまり政治参
加・政治的発言のベネフィットが上昇したとき)にのみ、懲罰的な投票行動によっ
て政治参加をする。このような行動をとる人々は、自己の利益が侵されない間は
投票を行わない、という点を捉えれば「政治に参加しない人々」であるが、いざ
という時には政治参加すべくニュースに耳を傾けている点で(潜在的な形で)政
治に参加していると言えるのではないだろうか。
ただし、この行動を以て事足れりとするには問題があろう。あまりに多くの
人々が現政権を消極的に支持することで、極端に投票率が下がれば、政治体制の
レジティマシーが問われることとなる。政治参加のコストを嫌って投票行動を避
ける人々の意見を何らかの形で汲み上げる必要があると考えられる。たとえば世
論調査は投票以外の形で国民の政治的意見を徴する一つの方法であろう。ただし、
現在の各メディアが独自に集計する世論は、データ改竄の可能性がつきまとう。
すくなくとも選挙における投票行動と同じだけの厳密さを保証しなければならな
い。技術的な問題の検討が必要である。
また、メディア活用の可能性も検討したい。現在インターネットをはじめとし
て、デジタル放送など双方向性のメディアが急速な発展を遂げている。しかしイ
ンターネットは゜゛「2ちゃんねる」などに見られるように、匿名性を笠に着て
無責任な発言をする者がおり、討論空間として熟していないと言える。しかし、
インターネットは完全に匿名性が保証されているわけではない。これもある種の
「あらし」的行為の一つではあるが、特定の人物の匿名性を崩す方法として「I
Pアドレスを曝す」という方法がある。使っているコンピュータ、経由している
サーバなどから個人を特定する方法である。(*12)またBlogという方法もある。
これは掲示板と違い、特定の人物が管理人・主筆者として場を保証するため、
少なくとも管理者は責任を持って発言せねばならなくなる。またBlogをもつ、
ホームページを持つといった形で、インターネット上にある程度長期にわたって
継続された活動の場があれば、それが担保となって発言に責任を持たざるを得な
くなる、ということもある。インターネット外の空間において、インターネット
空間と比べて発言に責任を持たねばならなくなるのは、そこでは長期にわたって
持続する「私」があり、友人や家族といった人間関係があるからに他ならない。
つまりインターネット上でも、ホームページという「私の分身」を持ち、その掲
示板やBlogにしばしば書き込みをしてくれる「住人」が増えれば、それらを守る
ために責任が生じるのである。このような形でインターネット上でも「責任」を
担保することは可能かも知れない。これが可能であれば、現在のBlog流行の状況
を考え併せて、一つの場としての成熟が期待できるかも知れない。
ただし、双方向性のメディアには「あらし」のような形とはまた異なる危険が
存在する。本人が至って真面目に、責任を持って発言していても、その内容が過
激・扇動的である可能性はある。そして、これに同調する人々が現れる可能性が
ある。かつてメディアで発言するコストが高かった頃には、何らかの形で認めら
れた者しか、メディアで発言することは許されなかったが、現在ではどんな人物
でも発言が可能なのである。たとえばNHKの番組中に、視聴者からの意見が
次々と紹介されることがあるが、あの意見のうちどれだけが、事実関係をきちん
と踏まえた慎重な考察の結論として語られているだろうか。感覚的に発せられた、
意見と言うよりは感想や怒号に類するものであっても、生放送で次々と届く視聴
者からの「意見」をいちいち選別することもできない。(また選別する正当性が
放送局には無い)こうした場を通じて、過激な言説が広まる可能性もある。
以上の論考で教育の重要性・新しい政治参加形態を模索する必要性・政治参加の
在り方と政治体制の正当性の問題・メディア活用の可能性と危険性などが示唆され
た。公共哲学はこれらの可能性を検討しつつ、理念創造のための具体的なシステム
確立に関与せねばなるまい。しかし、ここで前提に立ち返って、より深く考察する
必要がある。メディアの可能性について論じた中で、「あらし」や「過激な言説」
の危険を指摘したが、そもそもある言説を「過激な言説」として批判する正当性は
どこにあるのか。また「過激な言説」に対する批判はどのような形で機能し得るの
だろうか。
既に述べたように、ある言説が過激か過激でないかを判断する特権的な主体は想
定し得ない。従って、ある他者の意見を「過激である」として排除する正当性は、
如何なる主体にもない。ある言説がいかにも過激に思われたとしても、他者は他者
であるというだけの理由で、ある程度尊重せざるを得ないのである。「過激な言説」
の認定は、ある主体によって特権的に行われるのではなく、公共性の中で、諸主体
の承認を経て確定される。従ってある言説を「過激」として批判する場合、この批
判は公共性の中で諸主体の同意を得るという形でのみ機能しうる。
つまり公共哲学は公共空間において理念を創造する中核としての機能を担うため
に、教育の問題、政治参加の形態、メディアなどの可能性と危険性といったテーマ
を探究する必要がある。また同時に、公共性に参与する諸主体にとって理解可能・
同意可能なものでなければならない。これらの課題はあまりに広範すぎるように見
えるし、また学問の本質(*13)から外れるように見えるかも知れないが、決して
そうではなく、公共哲学に不可欠の要素である。公共哲学は社会と向き合い、社会
に開かれていなければならない。