以上の論で「公共哲学」の立場の弱さ、直面する困難が浮き彫りになっている。
すなわち公共哲学が天下り的に理念を語ることはできず、ただ社会内での承認を経
て始めて理念を語ることができる。「社会学者は神の視点を持ち得ない」のである。
理科学のように、学問内部で自己完結して真理を追究することはできない。しかし、
一人の学者が理念を決定する能力を持つという保証は無いように、大衆にも理念を
決定できる能力があるとは限らない。公共哲学が社会の承認を必要とするが故に、
公共哲学にとっては社会を構成する個々の主体の「質(*14)」が致命的に重要と
なる。そして個人主義を前提とする民主主義社会には、主体の養成は学校教育にお
いて完了される、という暗黙の前提がある。(*15)従って現状のシステムを前提
として(*16)考えれば、公共性を担う主体を養成する機会は初等教育から大学教
育に至るまでの間、ということになる。
先学期のレポート(*17)において、アイデンティティの貧困が、特定の政治信
条に踊らされる危険を増すと述べた。そこで提示された処方は2点あった。すなわ
ち多くのコミュニティに所属して重層的なアイデンティティを形成すること、及び
コミュニティへの所属とは異なる個人の内面性を充実させることである。
(1) コミュニティへの所属を巡る問題群
まず多くのコミュニティに属する必要性についてだが、ここでどのコミュニティ
に所属するかについて立場の対立がある。自由意志を尊重する立場は、所属すべき
コミュニティは自由意志において選ばれるべきだと主張するであろう。しかし一方
で、自由意志に基づく所属コミュニティ決定を許せば、早晩消滅してしまう少数民
族の問題などもある。
恐らく、明らかに意志に反する形であるコミュニティーへの所属を強制すること
はできまい。強制されてコミュニティーへ参加した主体は、決して本当の意味でそ
のコミュニティーに所属することはないし、そのような強制された成員が増えれば、
そのコミュニティーそのものが崩壊していくだろう。意志に明らかに反してコミュ
ニティへの所属を強制しなければいけないようでは、そのコミュニティは既に崩壊
しているのである。逆に言えば、そのコミュニティが真に価値あるものであれば、
強制せずともコミュニティ成員は確保されるのではないかとも考えられる。ただし、
ここには「主体は賢いのでコミュニティに真に価値があれば、それを認識できる」
という前提があることを見落としてはならない。主体がきちんと育っていなければ、
この主張は成り立たない。すなわちコミュニティと主体の双方を育む必要がある。
一方で、なぜ特定のコミュニティを守るのか、という問いの立て方も可能であろ
う。単に「私の所属するコミュニティが滅んでいくのは嫌だから」という個人的な
感覚以上の理由があるだろうか。「文化の多様性を維持するため」という言い方は
考え直す必要があるだろう。多様性の維持、ということはエコロジストに始まり広
くいわれる事だが、多様性を維持しなければ大きな問題が生じる、という主張には、
今ひとつ科学的な根拠がない。多様性が必要であるとして、一つの系にどれだけの
多様性があれば、多様性が充分だと言えるのか。
また、文化の保存などそもそも不可能ではないかという問いの立て方もあり得る。
たとえば、平安時代の日本の文化は、今日そのままのかたちでは維持されていない。
残っているのはその残滓のみである。このように、あらゆる文化は時間の中で変形
するものであり、今日ある文化が亡びつつあるとしても、それは特別なことではな
いし、アメリカニズムに原因を求めるべきものでもない、と考えることも可能では
ないか。社会集団間に交流があれば、影響を与え合う事も避けられない。今日全地
球的規模で諸文化の交流がある以上、均一化が進むのは避けられないのではないか。
さらに、本当に均一化が進んでいるのかという疑いもある。見慣れないものは全
て同じに見えるものであって、現代の文化状況が均一化の一途を辿っているという
主張は、見慣れないものが町に溢れるのを見て戸惑う古い人間の愚痴に過ぎないの
ではないか。同じ物が世界的に流行しつつも、それが各国毎に独自の解釈を与えら
れているのではないか。また異なる国で同じ文化が享受される一方で、一つの街に
も異なる個性が育っているのではないか。
なお、加えて2点ほど指摘しておきたい。
第一に、生まれたばかりで自由意志を行使する余地のない子供も、すでにいず
れかの文化集団に所属せねばその生を開始できない。この子供の文化的所属をど
う判断するか。幼児については、親権者が意志を代弁するという形になろう。少
なくとも本人が進むべき道を提示せず、しかしいずれかの方向に進まねばならな
い以上は、周囲が進むべき道を決定するしかない。しかし、複数の関係者間に意
見対立が生じる可能性もあり、問題は複雑である。(*18)
また第二に、ただし文化に善悪が有るか無いかという問題を考える必要がある。
ハンバーガー・コカコーラなど大量消費社会を象徴するアメリカ文化が批判され
るが、本レポートの論旨に沿えば、こうした判断も承認を通じてのみ正当化され
ることになる。では、これほど世界的に広く受け容れられているものを、「共同
主観に基づいて」批判できるのか。受け容れられている以上、これは良いものと
して承認されているのではないか。ここでは、ある消費文化を享受するかどうか
という事、およびある消費文化が生物学的・統計学的見地から言って健康・教育
など社会的善に資するか否かという事と、その文化そのものの善悪判断とを分け
て考える必要がある事を指摘しておこう。(*19)
(2) 個人の内面性涵養を巡る問題群
一方で、コミュニティへの所属とは異なる個人の内面性を充実させることも、
特定の政治信条に踊らされる危険を低減すると考えられる。(*20)個人的な
信念・思考法・善悪に関する判断を深める必要が有るという事である。
ここで当然見出される問題は、そもそも内面の涵養とは何を指すのか、とい
う事である。個人的な関係においては、人間性を語ることはできる。教育の場
では人間性の涵養が重要な目標として語られる。ところが、こうした問題を学
問として定義しようとすると、途端に暗礁に乗り上げる。あまりに捕らえどこ
ろがない。私は以前、「ゲマインシャフト的組織の運営能力を高めることが成
熟の重要な一要素である」との定義を行ったことがある(*21)が、これは個
人の捉えがたい内面性の変化を語ろうとする試みでありながら、いかにもお粗
末で不十分である。
しかし、だからといって不問にしていたのでは限界がある。公共哲学が現代
社会に公共性なるものを打ち立てようとするにしても、その方向性・理念は社
会のなかで形成されねばならず、従って理念形成のための意見集約・討議の場
が不可欠となるが、「愚かな大衆」が集まっても、罵り合いになるだけであり、
以上より公共哲学がその目標を達成するためには、討議の場に集まる人々が、
意見を述べ討議に参加するに足る「市民」であることを何らかの形で担保する
事が、無視し得ない要求となってくる。
さらに頭の痛いことには、こうしたわけで公共性の中心となる理念形成のた
めに曖昧模糊とした人間の内面性の問題を扱わねばならないが、「人間の内面
性は如何にあるべきか」という問題もまた一つの理念であり、従ってこれも学
問が社会に天下り的に与えることはできないという問題が生じるのである。こ
うなると殆ど知恵の輪の様相を呈してくる。あちらを外すためにはこちらが外
れなければならないが、こちらを外すためにはあちらが外れないと困る。
恐らく政治学における科学主義とは、こうした難問を回避して有効な学問を
構築するための試みでもあったのだ。従って科学主義を乗り越えて理念を語る
ためには、「理念」なるものが本質的にもつ困難を何らかの形で克服せねばな
らない。