2004年夏学期に開講された、消費社会論・都市論に関する講義の最終評価
レポート。課題として『我々の時代の都市の現在』という同じ助詞を繰り返
す奇妙なタイトルが与えられた。教官の課題出題時のコメントを、当時のメ
モに基づき、かいつまんで記すと、
「都市の社会学的記述を求める。都市に生きる人間の姿、悩み、苦悩等との
関係において論ぜよ。社会学であるから「価値」に注目のこと。人間の内面
に着目するも良し。自分が実感をもって書ける都市を選べ。客観性にあまり
拘るな。あまりに主観に偏するのが嫌であれば、写真などをつけてくれても
良い。建物でも良いし交通でも良い。暗い、恐い、そういう生きている人間
の感情に着目せよ」
とのこと。主観を大切にすることを認めた、一風変わった課題である。また
珍しく文字数に上限があり、原稿用紙8枚程度から12枚程度で書くこと、
とあった。
提出したレポートはかなり際どいものであった。すなわち第一に具体的な
都市について記述せよと言われているのに都市一般を題材にした思索的な
レポートを書いてしまったし、けっきょく本論のみで1万字、註で二千字、
加えて4冊の参考文献のうち2冊は漫画本という体たらく。にもかかわら
ず評価は優が来た。中には「良」の評価を受けた人もあったということで
あるから、全員に優を付けたわけでもないらしい。この次の学期に同教官
の授業を受講したときには、「彼がねぇ、また沢山書くんだよぉ」と授業
中に名指しされてしまった。気に入られた、気もする。
レポート自体は、まだ荒削りとはいえ今後温めるべきテーマ、アイディア
を含んでいるように感じる。
内容について。「はじめに」は、レポート課題とややずれたテーマを認め
させるための、いわば問題のすり替えのための部分である。ここで私自身
の興味である「人間の成長」「都市一般についての考察」にテーマをすり
替えた。
また「本論」では、後にまで展開される幾つかの試みが示されているので、
それを指摘しよう。
・「快適性」「成熟」といった曖昧な概念を定義しようとする試み
こうした日常語の概念は明確な定義が困難であり、従って学問化が困難で、
多くの学者はこれについて語ることを避けるであろうと思われる。しかし、
これこそが重要であり、語るべき事ではないか。
・現代社会における人間の有り様を説明する試み
かつてはマルクス主義者が「疎外」という言葉で説明を試みたであろうが、
ここに改めて、工場労働者のみならずデパートの売り子から学童に至るま
で広まっているかに見える、ある傾向を考察対象としてすくい上げる必要
があると感じている。しかもその根底には、他の多くの問題と共通の原因
があるのではないかと当時から直感していた。
・「化粧」「商品デザイン」「街区の設計」すべてを共通の「概念による
世界の分節(エッジの強調)」によって説明しようとする試み
化粧と街区については授業の中でコメントされたのであるが、商品デザイン
や街区の設計思想が均質性への強力な志向を示していることは以前から気に
なっていた。この説明はまだまだ強引な印象を拭いがたいが、本来開放系で
あるはずの現実をエッジによって分節しようとする努力自体が、ある問題を
孕むという認識には、いまでもある程度鋭いものがあるのではないかと考え
ている。
・社会善に関する感覚の変化を、「人間の退行」と捉えて説明する試み
学問において、ある変化を単純な進歩や退化と見なすことは非常に危険で
あるという事実は重々承知している。しかし、にもかかわらず、これは退
化ではないかと思うことはある。敢えて危険を冒すことは勇気か、蛮勇か。
社会的な事柄から個人的な事柄への興味の移行は、何か必然的な力学によっ
て起きており、かつある種の病理を孕んでいる、との直感があった。
また、レポート末尾では、後に「コンテクスト型/非コンテクスト・概念型」
の対立として捉え直される二項対立について、この時点で既に一方を強調して
済む問題ではないとの認識が提示されている。
民主主義は言語を武器として思想を紡いだ父祖たちの夢であり、限界でも
ある。父祖たちはその理想を、既に言葉に囚われた形で、「個人」という
概念を基礎にしてしか打ち立てられなかった。そこでは諸「個人」は対等
なものとして構想されており、A・スミスが述べた「立場の交換」のよう
なもの、つまり「相手の立場に立って考える」「自分だったらどうかと考
える」といった事が意味を持つ。
しかし、現実に存在する人間には一人一人微細な差異がある。おなじ「個
人」という言葉で隠蔽すれば、あたかも諸個人は平等で置換可能であるか
に見えるが、「相手の立場に立って考えなさい」という言葉が存在するの
は、「相手の立場に立って考え」られないことが多いからではないか。そ
れはつまり、自分と相手が置換不可能であり、自分と相手が本質的に差異
を抱えているという事ではないか。
恐らくここに「残酷性の思想」が胚胎する。もし私と君と彼が本質的に交
換不可能であるとしたらどうだろう? 私と君とが選ばれし民ユダヤ人で
あり、彼が異邦人であるなら、そして我々と彼が絶対的に置換不可能な別
カテゴリーに属しているのなら、我々は「彼」に躊躇せず叫ぶだろう。
「呪われてあれ」と。他者に対して剥き出しの敵意を向けることを、我々
は躊躇する。しかし、それは正に自分と相手が置換可能なるが故なのだ。
もし言語的・概念的・非コンテクスト的思考に基づき自己と他者を「同じ
個人だ」と認識していなければ、自己と他者の差異に基づいて差別を行う
ことは、何ら不思議ではない。
つまり、言語的・概念的・非コンテクスト的思考、そして民主主義は、仮
に現実との齟齬を含む幻影であるにせよ、コンテクストを超越してあらゆ
る個人が幸福を追求しうる、完全な平等を構想しうる、理想を語りうる、
幻影なのだ。
なお本レポートに示されたオタク観はかなり古臭く保守的であるとの指摘
を受けている。そもそも「オタク」とは正確には何者なのか、考えてみる
必要があるであろう。オタクももはや一枚岩ではない。オタクと名指され
る人々の中には、本レポートが論じたような社会性に欠ける人々もいれば、
コミケで仲間とコミュニケーションをとり、あまつさえ日常生活ではオタ
ク的と見なされない職場の同僚や学校の友達とも楽しげに交流を図る人々
も含まれるだろう。また一方で非オタクと目される人々が全て社交性に溢
れているなどと言えるはずもない。「オタク」は人間集団としてはあまり
に多様なものを含んでおり、もはや分析概念として使い得ないのかも知れ
ない。
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