本論

都市は――纏まった都市計画の有無を問わず――人間によって、人間の欲する
ように形成される。人間の病理は、その人々の理想・価値観・欲望の歪みに反
映され、都市形成に影響を与える。では人々の理想・価値観・欲望とはどのよ
うに歪んでいるのか。
講義で繰り返し指摘された現代人の欲望を表す言葉は「快適性」である。ただ
しこの言葉はまだ不明確であり、「現代人にとって快適性とは何か」という問
に答える必要がある。講義では快適性と他者からの羨望の眼差しの関係が強調
された。これは差別化が消費の大きな鍵となる今日の消費社会を読み解く上で
適切な着目であることは勿論だが、おそらく快適性のもっとも原初的な形態は、
そこまで他者の視線を意識したものではなかったであろうと考えられる。では
快適性の原初的な姿とは如何なるものであったか。これを読み解く上で、養老
猛氏の唯脳論は興味深い。現代社会とそれを形成した欲望とは、要するに脳化
社会と、それを求めた脳の欲望ではなかったか。
ただし唯脳論において養老氏は「解剖学者としての独自性を押し出さねばなら
ない」という限界に阻まれていたように思われる。すなわち、彼は解剖学者の
目に触れる「脳/身体」という二分法で論を立てようとしたが、実際は脳も身
体の一部である。また脳幹など脳のある部分は身体機能の調整を司っており、
大脳新皮質とは機能がかなり異なるが、機能の違いは解剖学者の目には触れな
い。養老氏は論理的妥当性を重んじるなら、むしろ脳機能のごく一部としての
精神と、その他全てとしての身体が対立を孕んでいると述べるべきであったろ
う。
精神は論理によって事物を把握し、現実とは独立した理想・目標を設定する点
で身体性の延長とは一線を画す。すなわち脳を持たない身体(微生物などに見
られる)や、身体性の延長としての脳機能(視床下部などに端的に現れる)は
外界からの信号受容がそのまま反応に直結するのに対し、精神は外界を一旦言
語によって分節された要素体系に変換して理解した上で適切な反応を選択する。
また身体や身体性の延長としての脳機能は、欲求を既存の現実の枠内で形成す
るのに対し、精神は現実にない事柄を欲求し、空を飛ぼうとしたり、人肉の味
を試そうとしたり、奇妙な性衝動を持ったりする。ここから、連続的事物を独
立的要素の集合に分節し、これを意のままに変革する可能性こそが唯脳論的精
神にとっての快適性であると結論できよう。
近現代を画するものである個人主義という思想は、恐らくこの精神の二つの性
質のうち前者と深い関係を有している。すなわち、本来我々の身体とは物質と
エネルギーが出入りする開放系であるが、精神はこれを「私」という言葉で分
節し絶対化する。ここに民主主義を擁護するために戦略的に導入された「人間
は皆等しく賢い」という思想(反王権闘争のための、王権神授説に対抗するプ
ロパガンダと言うこともできよう)が絡みついて成立したのが「個人は既に賢
明な存在者であり、自己に属する事柄について他者から完全に独立した選択権
を有する」という思想、すなわち個人主義であったろう。
この個人主義が、現代都市民の歪んだ欲望の一つの源泉になっているのではな
いかと思われる。すなわち、個人主義は人間を「既に賢い存在者」と考える点
で、啓蒙(それは人間が初めは蒙昧であることを前提とする)と相容れない思
想であり、人間の現状を肯定する、人間の成長の必要性を否定する思想である。
この思想と現実の齟齬を埋めるために、「子供」は未完成の個人と規定され、
教育によって選挙権獲得までに啓蒙し終えることが追求されるのだが、現実に
は必ずしも選挙権の有無と賢明さは相関しないので、未だ賢明でないとされる
「大人」もいれば、子供・若者の中にも個人主義を自らに当てはめ成長を拒否
する者も現れる。彼らは自己に属する事柄を自由に処理できるという快適性を
追求する。(*2)

ここに至って唯脳論的精神の追求する快適性の傍らに成熟の拒否という主題が
立ち現れた。ところで、成熟とはそもそも何か。一般的には経時変化によって
価値が増大することと定義できようが、これでは曖昧に過ぎる。人間における
成熟の定義は困難だが、ここでは乱暴を承知の上で「ゲマインシャフト的組織
の運営能力を高めること」が成熟の重要な一要素であるとして考察を進めたい。
すなわち家族をはじめとする人間関係の処理が巧みで、そうした集団を守り育
てる支柱となる者、周囲の幸福を保証する者のことを、経時変化によって価値
を高めた人間、すなわち成熟した大人というのではないか、という事である。
(*3)このように定義される成熟の拒否こそが本レポートが呈示する若者の病
理の重要な源泉なのだが、ここでは結論を急ぐ前に、唯脳論的精神の第二の性
質が、別な経路から同じ主題に辿り着くことを見ておこう。

精神は現実とは独立した理想・目標を設定する。目標設定は現実とは独立して
行われるが、目標が設定されると、現実はこれに寄り添うよう変革されること
が要求される。(*4)これは科学進歩の大きな推進力となったが、一方で経済
・産業・就労構造にも変化をもたらした。すなわちより多くの財を消費したい
という目標は大量生産の方法を生みだし、何時でも、何処でも、誰でも財が購
入できるようにしたいという目標は流通・販売システムを発達させた。その販
売システムの中では、売り手も買い手も無顔貌の大衆の一人として、名前が問
題にならない不定冠詞付きの人間として扱われる。巨大企業は個々の接客担当
者の個別的長所を活かすことより、個別的短所が露呈されることを恐れて一律
の接客態度を教え込む。
こうして精神は財について目的に添うよう現実を制御・予測可能な均質なもの
にしようとするだけでなく、接客担当者という人間をも均質化せんとする。彼
らは人格を備えた個人から、消費される機能へと零落する。できるだけ個性や
感情を感じさせない制服が用意され、髪型が要求され、言葉遣いと発音が工夫
され、対応マニュアルを暗記させられ、人形のように常に笑っているよう命じ
られる。
しかし、この現象は接客においてのみ見られる現象ではない。おそらく家庭に
おいても、学校においても、諸個人は他者には知り得ない暗い内面を持った悩
み苦しむ他者として現れることは許されない。明るく楽しく合理的で機能的な
日々の構成要素であることが要求されるだろう。このような個人というよりは
機能と呼んだ方が相応しい人々の関係性の中に、成熟への契機は存在しない。
なぜなら、ここにはそもそも人間関係のゲマインシャフト的側面が希薄であり、
かつ人間関係における処理すべき問題が隠蔽されるため、その処理技能を訓練
する機会がない。
このことを詳しく論じる。今日の家族構造・地域社会の現状では、子供が接す
る大人は学校の教師と家庭の親でほとんど尽きると言っても良いが、学校教師
は人間というより教育という機能として現れるよう圧力がかかっているのでは
ないか。すなわち、第二次大戦後の右翼の否定、戦後の闘争による左翼の敬遠
が「教員は子供に政治的影響を与えるべきではない」という意識を生み、また
個人主義の考えから教員は子供に自分の個性を押しつけず、子供の個性をその
ままに認めることで、その個性を伸ばすべきだという言説が広まった。これら
を果たすためには、教員は個性を出したり個人的見解を述べたりすることは差
し控え、教える事は教科だけに絞り、人間性については子供が自ら育てるに任
せることが無難であるという結論が導かれる。(*5)そして家の両親もまた、
子供から機能としてしか認知され得ない状況が存在する。すなわち日本の社会
構造として、東京の多くの「父」はかつてゲマインシャフト的・習俗的集団か
ら切り離されて東京に吸引されてきた若者達(*6)であり、家族よりも遙かに
ゲゼルシャフト的な集団としての企業(*7)で多くの時間を過ごし、ゲマイン
シャフトとしての家に帰っても配偶者との一対一の人間関係があるに過ぎない
という環境で青年期を過ごし、ゲマインシャフト的集団の高度な運営能力を身
につけないまま、合理的タスク処理機械(*8)として壮年になり、そもそも子
供とどう関わったらいいのか分からず、就業時間を口実に子供と関わらない。
そして母親は「何をもって善と考えるか」という問題に明確な指針をもたない
まま、家単位としては快適性と貨幣の蓄積を追求し、子供に対しては快適性を
保証する明朗さと、将来の貨幣蓄積を保証する成績を要求する。しかし、子供
はこの要求に納得できず、暴君化する母に対しLDKを障壁として子供部屋に
立て籠もる。
これでも子供というものが(選挙に堪える賢さまでは無理にしても)既に素晴
らしい個性をもった存在者であれば、問題はない。しかし実際には、子供とは
周囲の人々を見習ったり真似たりすることによって、ようやく個性を形成する
ものであり、周囲の大人を観察することで、自分がどのような大人であるべき
か、あるいは少なくともどういう大人であれば最低限生きていけるのかを学ぶ
ものではないだろうか。そのためのモデルとして、子供は生きて生活に従事す
る大人の姿を必要とする。すなわち、現代の社会関係には大人が成熟する契機
が少なく、成熟を拒否した大人に囲まれた子供たちには、そもそも成熟という
概念に触れる機会が少ない。

以上、現代都市民の唯脳論的精神が有する二つの性質が成熟の拒否に帰結する
事を述べたが、成熟を拒否した精神がどのような運命を辿るかを見る前に、こ
の成熟の拒否が人間精神においてのみ現れるものではないことを見ておく。

講義において、多摩ニュータウンという都市空間そのものが成熟することなく
見捨てられたと述べられた。安い建材で建てられた家には、完成直後から汚れ
が付きはじめ、疲弊してゆく。しかし、実は使用された建材の安っぽさは根本
的な問題ではなく、多摩の都市空間が短期間で消費された真の原因は、恐らく
そのデザイン思想にある。すなわち現代の都市空間を埋めるデザイン──建築
に限らない。歩道のデザインにしても、あらゆる商品にしても同様である──
は、その完成・出荷時に頂点であるようにデザインされている。その一つの例
がモダンなデザインに頻出するプラスチック・ガラス・石などの滑らかな表面
加工と、白・原色・透過色の多用であろう。光沢は細かい傷が付いただけで失
われ、平滑面は大きな傷がひとつ付いただけで、文字通り傷物となる。白や原
色はやがてくすみ精彩を欠くようになり、ガラスは少し手垢が付いただけでも
汚れとして目立つ。こうしたデザインを経済の側面から見ると、家庭にある物
より売り場に並んでいる物の方が美しく見える点で購買意欲を刺激し、また短
期間で劣化するために買い換えのサイクルを早める、まさに理想的なデザイン
として整合的に納得できる。(*9)また製品開発の視点から見れば、主に機械
分野で製品の性能は常に向上しており、従って新しいデザインは新しい機能と
結びつくものとして、新機能の好ましさが二重写しになった姿で捉えられるで
あろう。すなわち新品のデザインが好まれる理由が説明される。(*10)しか
し、上記の説明では、なぜ平滑面と原色・透過色の多用が好まれるのかは理解
されないだろう。すなわちこうしたデザインが購買意欲を刺激するのは、消費
者がこうしたデザインを好むことを前提として始めて成り立つ。もし消費者が
「平滑面と原色・透過色を多用したデザインは嫌い/悪くないが、すぐ劣化す
るから良くない」と考えていれば、そもそも購買意欲は刺激されない。また
「新しいデザインは新しい機能と結びつく」としても、その「新しいデザイン」
が「平滑面と原色・透過色を多用したデザイン」である必要はない。「平滑面
と原色・透過色を多用したデザイン」が好まれる理由は、他に求められなけれ
ばならない。
このデザインの問題にヒントを得るため、ここで身体の加工について考えてみ
たい。人間の身体にもまた成熟の拒否は現れている。加齢の印の消去を目指す
処理が多く為されることが、その証拠である。しかし、それだけでは説明のつ
かない部分があり、それは工業デザインとどこかで通じる物があるように思わ
れる。
身体加工技術は体毛を抜き、毛穴を隠し、色を均一にし、凹凸を抹消する。一
方で目と唇、爪などは強調し、臭いは徹底的に消去され、汗など分泌物は制御
される。この身体加工は若さの追求によって説明できる部分もあるが、たとえ
ば肌の平滑化と目の強調は、本当に若さの追求の結果なのだろうか。経時変化
の排除がこれらの化粧の主題だとするならば、その目指すところは若さと言う
より幼さである。しかし講義においてアニメの美少女は決してロリータ趣味の
結果ではなく、彼女らが汚れなき世界の住人であることを自己言及した結果で
はないかと指摘された。その証拠に、ロリータ趣味の結果ならば体だけ成熟し
ているのはおかしい、と。これは現実の女性の化粧についても当てはまる。
清浄さの強調という説明は、若さの追求では説明しきれない、化粧のある部分
を確かに説明する。しかし、目の強調も清浄さの強調につながっているとは考
えにくい。むしろこれは、平滑面+アクセントという工業デザインの思想と相
通じるように思われる。これは結局いかなる欲望が結実した結果なのか。
ここで再び唯脳論に戻りたい。唯脳論的精神の二つの特徴は既に挙げたが、そ
のうちのひとつ、論理による事物把握に着目する。世界は本来連続体であり、
境界は必ず侵犯されている。すなわち我々の肉体からは常にいくつかの経路か
ら物質が排出され、いくつかの経路から物質が摂取され、ある場所では細胞が
死に脱落し、また別の場所では細胞が新たに生まれている。微生物が体内と体
表に共生しており、他の生物遺骸を摂取する一方で、自己の脱落した組織が細
菌やバクテリアの培地となっている。何処から何処までが私かを明確に線引き
することはできない。しかし、唯脳論的精神は「私」という明確な概念を持っ
ている。唯脳論的精神は本来連続体である世界を、境界と、境界に囲まれた内
部・外部に分節する。境界に囲まれたひとつの領域は均質なものとして想定さ
れる。ひとつの領域内にあまりに顕著な差があると、そこに新たな境界線が見
出され、新たな分節が為される。唯脳論的精神は境界がはっきりしていること、
領域が均質であることを良しとする。
工業デザインや人間の肌の平滑面は、この「領域」なるが故に均質であること
が求められるのではないか。工業デザインのアクセント、化粧における目の強
調は、平滑面に引かれた境界線ではなかったか。より大きく見える目とは、よ
り印象の強いアクセントに他ならないのではないだろうか。テレビの精細度を
上げたときに我々が見たがっていたのは、人間の肌に関する限り、ディテール
であるよりはエッジであったのではないか。(*11)我々が鮮明な画像と言う
場合、肌の肌理がわかることよりも、まずは顔の輪郭線がはっきり映ることを
意味したのではなかったか。(*12)
しかし、唯脳論的精神の事物をエッジによって分節する傾向にも関わらず、現
実は決して分節しきれない。仮に何らかのエッジが認められるにせよ、それは
常に侵犯されており、時間と共に侵され曖昧になっていく。従って、ここに述
べたようなエッジとその内部の均質領域への欲望といったものが我々の中にあ
るとすれば、多摩ニュータウンが短期間で廃れた理由が説明可能かも知れない。
講義ではこの空間は消費されたのだという言い方でひとつの理解が示されたが、
ここに示されるのは、多摩ニュータウンがもともとエッジという永続し得ない
物、元々あり得ない物、我々の論理に基づく事物認識の中にしか存在しないも
のへの欲望によって形成されていたため、もともとそこに住まう人々の欲求が
裏切られることが約束されていたのではないか、多摩ニュータウンの衰亡は予
定通りのことだったのではないかという理解である。すなわち多摩ニュータウ
ンの均質な街路はニュータウンの外部から明確にニュータウンを弁別しつつ、
そこに均質な領域を形成するものであった。しかし、この均一性は相当に強力
な努力によってしか維持され得ず、見る間に街区には多様な断絶線が走り始め、
風俗店などはじめには排除されていたものが浸入を開始し、均質性が崩壊しエッ
ジは曖昧に崩れてゆく。これは恐らく六本木ヒルズの如き高層マンションにも
遠からず起きるのではないだろうか。すなわち墓標の如き高層マンションを欲
する人々の心の中には、このマンションが他から明確なエッジによって断絶さ
れつつ、内部には美しい均質性が保たれている事への欲望があるが、これを侵
犯する力がかかりはじめ、この空間は徐々に曖昧に崩れていくのではないだろ
うか。街区が消費されるために成熟しないのだとしたら、それに対する処方箋
は、その街区を故郷として住まうことになるであろう。一方、ここに示された
街区衰亡の説明からは、そもそも街区を他からエッジによって弁別されるもの
として設計する思想がいけないという事になる。開放系として周囲の町並みや、
いずれその街に侵入してくるものとの関係の中に街を位置づけなければならな
いのではないか。(*13)
最後にアニメの中に見られる成熟の拒否を指摘しておこう。アニメは今日の子
供たちにとって重要な日常の要素であるが、注目したいのは多くの子供向けア
ニメが子供や若者を主人公にしている点である。アニメが老人の知恵やら成熟
やらといった主題を扱うことは極めて少なく、多くは若さを賛美し、若さを原
動力としてストーリーを展開する。これは成熟を拒否した人々が作ったからそ
のようになったのだとも考えることは可能だが、一方で子供は子供を主人公と
する物語を楽しむべしという言外の前提があるようにも思われる。既に述べた
とおり、子供はいずれ大人にならねばならないのであり、そのために大人の見
本を必要とする。しかし近世に子供というものが発見されると同時に、恐らく
子供と大人は切断されてしまったのである。子供は子供の世界に軟禁され、成
熟という観念に触れる機会が奪われる。

成熟の拒否が経済の要求や製品開発、教育とも関係して広範に認められること
を述べた。このような成熟を拒否する言説に取り巻かれた人々はどのような運
命を辿ることになるか。

ここで問題としたいのは、善とは何かという問題である。人間は事ある毎に選
択を行い、善い結果を引き寄せようとする。しかし、そもそも「幸福」「善」
とは定義が困難なカテゴリーであり、深い精神の活動の中からようやく定義さ
れてゆく。従って人間の人間としての精神の成熟が拒否されたとき、幸福は最
もプリミティブなレベルに退行する。その結果が身体性に密着した快適性の追
求ではないかと考えることができる。この考えは、人々が個人的な事柄に興味
を示して社会への関心が低くなった理由について、興味深い説明を提起するだ
ろう。すなわち一般的には「大きな物語の終焉」によって人々は個人的な事柄
に興味を向けるようになったかの如き説明がしばしば為されるが、これは必ず
しも正しい事ではなく、現実には「社会的善といった事も考えれば考えられる
能力を持っているのだが、大きな物語が終焉を迎えてしまったから、もう考え
ないことにした」というより、「もはや社会的善について考えるほどの精神活
動を行っていないので、考えたくてもまともには考えられない」という事も多
いのではないか。
人々はこうして最もプリミティブな幸福としての身体性に密着した快適性や、
善とは何かという問を留保したままでも、善の内容が分かったときには、いつ
でもそれを贖い得るという保証、すなわち貨幣を追求し始める。このような人々
は成熟という事を知らず、ゲマインシャフト的組織の運営能力に、多かれ少な
かれ不足するようになり、また人間関係をゲゼルシャフト的に処理するように
なり、相手を人間と言うよりは機能として、ある機能を果たす人の形をした物
(フィギュア)として扱うようになる。恐らく、その極端な形が秋葉原に集ま
るオタク達であろう。講義時に示された「彼らは現実の女性に見向きもされな
いから仕方無しにアニメの美少女に群がるのではなく、その方が楽しいからそ
うしているのではないか」という指摘は、おそらく正しい。彼らは人間として
の他者と交わる能力に著しく欠けており、故にフィギュアを対象とすることを
選び、また他者をもフィギュアとして扱うのではないか。
一般的な若者はオタク達を笑うであろう。しかし、そういう彼らも成熟を拒否
する社会に生きており、他者を機能として扱うことに慣れつつある点は変わら
ない。たとえば多くの大学生は講義が始まった教室に堂々と入って教卓の前を
横切り、また教員の背後・黒板の前を過ぎる。彼らは「三歩下がって師の影を
踏まず」などという言葉は知らないが、かといって左翼学生のように教官を真っ
向から批判するのでもなく、端的にそこに立っていることを無視している。し
かし、講義は受けるのだから、完全に無視しているわけではない。つまり教官
としての機能がそこにあることは認めているが、そこに人間が立っていること
は無視しているのである。また、教官の言葉として近頃の学生は熱く語り合う
ことを知らぬと言われるが、おそらく彼らは友人同士の人間関係もまたフィギュ
ア同士の関係として認識している。フィギュアの特徴は相手の望み通りの物し
か出力しないという点である。人間は既に内面として抱えてしまっている物が
あるので、それを徹底的に抑圧しない限り、相手が予期せぬ物が出力される。
しかし、彼らは相手への「迷惑」を考慮して既にある内面を抑圧しているか、
あるいは既に抑圧すべき内面を喪失している。人間同士であれば予期せぬ反応
が現れて衝突が起きる場合もあって当然であるが、彼らはフィギュアとして振
る舞う事に慣れ、そうした衝突を回避する。
恐らくここでは、他者が予期せぬ個性や個人の内面とは、肌のくすみのような
ものなのだ。それは滑らかな日常についた汚点であり、消し去られるべきもの
なのだろう。

にもかかわらず、現実としては内面に暗箱を抱え、他者との深い関係を取り結
べず、年相応に成長せねばならないにも関わらず理想像を持てないで苦しんで
いる若者がいる。本レポートのこれまでの文脈から提起される処方箋は、当然
の事ながら成熟の復権である。人間はゲマインシャフト的社会集団を持つ必要
があり、その中で人間は都合のいいフィギュアとしてではなく、根本的に交流
が困難な、それぞれに差異を持ち暗部を持った人間として扱われなければなら
ない。
しかし、それで解決とするわけにはいかない。既に見たように、成熟の拒否の
源泉には民主主義など、一概に否定して終わることのできない重要な思想があ
るように思われるのである。また都市空間を他から峻別されるものとして設計
することは空間の消耗につながると述べたが、そうは言っても我々は別世界の
形成・体験という欲望を捨てることはできない。
おそらく脳の機能には二つの要素がある。末端の奴隷として入力に対し適切な
値を返す関数としての機能と、末端を恨む自己準拠的精神の座としての機能で
ある。本レポートでは前者を身体の延長と考え、後者は身体から離脱し、身体
が今在る空間・状況から離脱しようと目標を設定し、それに接近すると考えた。
後者の機能が非場所、非人間を志向する端緒であり、本レポートが批判的に描
いたが、実際は二つながら人間に必要な機能であり、両方があっての人間であ
る。
恐らく我々は結論を得ることはできないのであろう。養老猛氏が「脳は体を恨
んでいる」というセンセーショナルな言葉で表現した緊張関係は、常に崩壊の
危機を孕みながら我々の内部にある。我々にはこの緊張関係を解消することは
できず、このバランスが崩れかけたときに、それを修正すべく手を打つしかな
いのである。たとえ何度バランスが崩れようと、そのたび毎に適切な修正を図
らねばならない。終わることのない過程。
しかし、だからこそ我々はたゆまず社会の現状を正しく把握する努力を続け、
修正を目指して介入する時のための地図を作らなければならない。