本レポートは2003年度冬学期から2004年度冬学期、3学期間に渡って開講
された連続形式授業の、二本目の最終評価レポートである。講義内容は、18世
紀の哲学者デビッド・ヒュームの因果論を考える、というもの。「人間本性論
(人性論)」の一部を時間をかけて読んだ。
レポート内容は、ヒュームの因果論に関するコメントはほとんどお付き合い程
度で、独自の因果論を展開しようとしてもがいている、といったところである。
第1部と第2部からなるが、第1部はほとんど無内容と言って良い。それくら
いの事は誰だって思いつくだろう、という程度のことをくどくどと書いている。
なおヒュームの因果論とニュートン物理学の関係に関する論考は、後に提出す
る別のレポートで書き換えた。
第2部は様々な論点を検討しているが、まとまりが悪く、論も充分には練れて
いない。しかし多様な論点の洗い出しは、その後の思索展開に役立ったのかも
知れないと今になってみれば思う。
主要な論点を洗い出すと、
・客観現実を疑うヒュームの立場には一定の評価を与えている。基本的に、こ
れを拒否する有効な手だてはないのではないだろうか。
・「もの」は必ず「事象」の形で存在する。「もの」とは例えば「車」「犬」
といった概念で、事象とは「車が走っている」「犬が吠えている」といった概
念だ。「もの」は名詞で表現でき、「事象」は文(主語と述語から構成される)
で表現できる。「事象」と言うとピンと来ないなら、「できごと」と言っても
よい。このとき、我々が見聞きし触る「もの」は、すべて「事象」に包まれた
形で存在している。我々は「車」単体を見ることはできない。「車が存在して
いる」のを見るのだ。このとき車は重力によって地球の中心に向かって引っ張
られているし、地面に対して数百キロの力をかけている。私の視線が車に遮ら
れて、車の陰に隠れている子供を見ることができない。このように「車」は周
囲の環境と様々な関係を取り結んでおり、多くの事象に包まれている。まった
く事象に包まれないで存在する車、つまり誰かの視線を遮ることもなく、地面
などに力をかけることもなく、他の物質と万有引力の法則に基づいて引きあう
こともなく、相対性理論を無視して時空を歪めることもない、ただ「車」だけ
で存在する、などと言うことはあり得ない。従って因果論を考える際も、もの
は全て事象に包まれており、事象はすべて自然法則の支配を受けている事を忘
れてはいけない。ヒュームも同名因果も、この点を失念しているのではないか。
・「因果関係」とは原因と結果の関係だが、理由と結論の関係など、因果関係
と似ているような違うような、紛らわしい関係が幾つかある。これらを綜合す
る定義を与えようと努力した跡がうかがえるが、大して意味のある努力ではな
かったように思う。ただし、その検討過程で発見された幾つかの関係は論点と
して興味深い。
・客観現実の有無に関する認識と因果論の関係
・世界の連続性、言語による分節の恣意性の摘発
そもそもこのレポートを書くに至った背景には、既存の因果論に対する激しい
違和感が存在した。その違和感の中核を為していたのが、「世界の連続性、言
語による分節の恣意性」に対する違和感であった。因果を論じる哲学的テキス
トは、「火を近づけたので熱くなった」などという文を題材にして「火が原因
で熱さが結果か」「いや火を近づけたことが原因で熱くなったのが結果だ」
「いやいや、他にも周囲が極端な低温環境でないこと等、補助的な条件が必要
だ」などと言うが、そもそも「火」や「火を近づけること」といった言葉で現
実を切り取るのがナンセンスではないか。 言語を使った因果概念の分析は、恐
らく後付けの解釈の域を出ない。人間の認識以前に存在する、自然法則によっ
て緊密に結合されたある時点の状態と次の時点の状態との関係。そのような関
係の連鎖。それが現実に存在するものの全てではないか。そして人間はそこに
原因と結果を見つけだす。原因を見つけだすのは、悪弊の原因を断つためか、
好ましい状態を繰り返し実現するためか、いずれにしても自己の利益を増大す
るために因果関係を考察するのである。因果関係とは哲学の考察対象と言うよ
り、生活者の考慮するものではないか。 このような因果論を構築したら、その
因果論を踏まえて人間の自由意志などの問題についても考察し、次第に考察の
レベルを社会のレベルへと高次化し、哲学から社会諸科学に至るグランドセオ
リーを構築する、というのが計画だったようだ。いまではその計画には懐疑を
抱いているが、少なくともこの文を執筆している2005年7月の段階では、その
計画を捨ててはいないようだ。
<もくじ>