(1) 同名因果とは何か
同名因果説とは、結果Bが原因Aのある性質fを継承しているとする論である。
イデア説や中世神学では最も根元的な性質としてdegrees of realityという
概念が前提とされていた。しかしこの考えは時代精神説の項で既に述べたと
おり、科学的考察の対象が博物学的事物である場合に適合的な見方であり、
たとえば物体の運動の如き物理現象の説明には、いまいち適さないようであ
る。より一般的に述べれば、同名因果説では原因と結果がある性質を引き受
けるモノとして構想されているが、因果関係とは、より詳しく見れば、本来
は事象と事象の間に取り結ばれる関係ではないかと考えられ、そこを見落と
している同名因果説は博物学の如く目に付くモノを分類している素朴な段階
では使えたかも知れないが、現代の物理学を中心に統御された理科学には対
応しきれないと考えられる。
因果関係が本来は事象と事象の間に取り結ばれる関係であるとは、以下のよ
うな理由による。すなわち現実においては、あるモノが事象の中に組み込ま
れずに存在することは有り得ない。あるモノが「在る」時点で、それは「存
在する」という述語を纏った状態で、既にひとつの事象として存在している。
あるモノが述語抜きで存在しうるのは、我々の思考の中においてのみである。
因果関係が現実の関係である限り、因と果はそれぞれ主語のみでは存在し得
ず、必ず述語を纏った事象の形でのみ存在しうる。
もし因果関係が必ず条件文で書き表せるという前提をとれば、このことは明
確に示すことができる。すなわち「A⊃B」はABともに命題が当てはまる
が、主語単体では命題として成り立たない。述語論理学で記述すれば、条件
文は「f(a)⊃g(b)」という形をとるはずだが、原因と結果のいずれかに述語
抜きの主語が代入されれば、「f(a)⊃b」といった、明らかに式として成り
立たない論理式を書くことになってしまう。
しかし性質の継承とは言わないまでも、諸事象が因果と呼ばれる何らかの関
係によって取り結ばれていると主張することは、ヒュームの如く因果を恒常
的随伴により我々の主観の中に形成された蓋然的結びつきに過ぎないという
主張よりは、我々にとって受け入れやすいようでもある。現代で考えれば、
因果とは物理法則によって一方から他方が導出できる関係と考える事が、取
り敢えずは出来るのではないだろうか。
この考えは常識に照らし合わせて無難なようであるが、いくつかの反論は避
けられまい。第一に、人間の能力の問題で、物理法則では因果を説明しきれ
ないのではないか。複雑な物理現象は理論上は予測可能なはずであっても、
実際問題複雑すぎるという事があるかも知れない。また物理学は基本的に現
実を単純化して捉えるが、それで本当に説明できたことになるのかという疑
問が提起しうる。第二に、物理法則で説明できないことは全て因果とは呼べ
ないのか。たとえば疲れていたため寝てしまったといった事は、脳科学の未
発達により物理学から説明を説き起こすことは事実上不可能だが、それでも
これは因果ではないか。第三に、第二と重なるが、我々の習慣として、我々
は物事を物理学などで説明せずとも因果を認識している。第四に、物理学が
未発達なために説明しきれない事象には因果関係は存在しないのか。
第一の反論はさほど本質的ではない。「因果とは物理法則によって一方から
他方をだいたい正確に導出できる関係」とすれば、人間の能力の限界を命題
の曖昧さで吸収することができる。(もっとも「だいたい」がどの程度かを
定義しなければならないとの反論に曝されるかも知れないが、物理学の問題
では予測される誤差やデータの相関の有意性といった概念があり、実際上問
題は生じない)
第二・第三および第四の反論には、注目すべき点があるように思われる。
第二・第三の反論から、以上の論が科学における因果関係に偏した論じ方
であったことが明かとなる。また第四の反論は、因果関係を我々の主観に
現れる限りで認めるか、未だ主観によっては認識されていなくとも客観的
に存在すると考えるか、すなわち客観性をどう評価するか、客観性を認め
るか否かという問題を提示する。
(2) 多様な因果関係?
理科学的な因果関係としては力学的関係と化学的関係が弁別可能かも知れ
ない。すなわち力学的関係とは高さ、位置、運動のベクトルとエネルギー
といった事柄に関わる因果関係であり、化学的関係とは物質の性質に関わ
る因果関係である。いずれも物理学と、それを基礎にした化学の言説に
よって説明可能であろう。弁別は可能だが、ここではその弁別は大した
意味を持たない。
それ以外の関係として重要なのは論理関係である。論理(A⊃B すなわ
ち条件文)は因果であろうか。既に「理由−結論関係は原因−結果関係と
重なる。根拠は原因とも読み替えられる」と述べたが、果たしてそう言え
るのか。「A⊃B」が「Aが起きればBも起きる」という意味であれば、
これは明らかに因果である。しかし「Aが真であればBも真である」とい
う意味であれば、Aは原因と言うより根拠であると言いたくなる。ただし、
それでは原因と根拠はどう違うのかという反論が提起できる。原因−結果
は物理法則によって関係づけられた現実の事象間の関係であり、根拠−結
論は論理法則によって関係づけられた心中の命題間の関係であるという説
明があり得るであろうが、では両者は現実の関係か心中の関係かという以
外に違いはないのか、逆に言えば根拠−結論は心中における原因−結果な
のかという問が提起できる。実際、「ある人がある根拠となる命題を心中
に抱くこと」という事象と「ある人がその根拠から、ある命題を結論とし
て導くこと」という事象は、因果関係を取り結んでいるように見える。ま
た論理法則とは現実における物理法則、ないしはもっと根元的な数学的法
則を捉えたものであるとも考えられ、そういう意味でも現実の因果関係の
心中におけるコピーが論理関係であると言いたくなる。しかし因果関係の
心中におけるコピーは、あくまで「Aが起きればBも起きる」という意味
での論理関係であるとも言い得るだろう。論理関係と因果関係の関係は、
いまいち明かではない。
また心的因果も化学的な因果関係とは分けて考える必要があろう。「金欲
しさに殺人を決意した」これは「金が欲しい」という心中の要素(欲求)
と「殺人の決意」という心中の要素(意志・決定)が因果関係で取り結ば
れているように見える。自由意志に関して決定論的立場をとれば、心中の
要素とは全て脳の機能であり、脳の機能は脳細胞に支えられており、脳細
胞は物質であるから物理法則に従い、よって心中の諸要素は物理法則に
従って継起すると考えることが可能である。また両者の関係は「金が欲し
い→人を殺して金を奪えば金は手に入る(人を殺してもばれないかも知れ
ない・人を殺してもばれなければ構わない)→殺人を決意」といった、他
にいくつかの前提をもつ論理的関係であるとも説明できよう。しかし、心
的因果が複雑なのは、そこに法的判断が絡むことである。すなわち、ある
人物が犯罪的行為を為したとき、この人物が自由意志に基づき行為を行っ
たのでなければ、言い換えれば自由意志を原因として、結果である犯罪的
行為が為されているのでなければ、これは罪に問い得ないことになってし
まう。すると自由意志を否定するような決定論、心中の要素はすべて物理
法則の支配下にあると述べるような決定論は、一切の有罪判決を認めない
立場という事になってしまう。法学が論じる因果と哲学で論じる因果を分
けて考えるという考え方もあろうし、現実にはそのようにされているであ
ろうが、それでは法学が慣習以外に根拠を失ってしまうという問題もあり、
それで良しとすることは難しい。
上記の検討を踏まえ、因果関係の定義を書き換えたい。「何らかの法則・
理論によって説明しうると考えられる現実の事象間の関係」としてみよう。
物理法則によって説明しうると考えられるのが理科学的因果関係である。
論理法則によって説明しうると考えられるのが論理によって捉えられた因
果関係である。心中の出来事としての根拠−結論関係は一応含まない。ま
た心的因果は心理法則によって説明出来そうだと考えられる場合を指す。
心理法則とは脳の構造上生じる連関と考えれば良いであろう。ある欲求が
あると、それを満たす方法を思わず考えるといった、誰にでも見られる心
中の要素同士の連合である。
では、論理法則から外れた思考を行う統合失調患者、あるいは心理法則か
らずれた心的反応を見せる鬱病患者はどうだろうか。彼らも医学理論に
よって説明できそうだと考えられるので、ある種の因果関係は認めうる。
ただし、この論は主観的に「説明できそうだと考える」ことをメルクマー
ルとするため、第一・第四の反論を回避できる部分がある一方、誤って説
明できそうだと考えた場合はどうするのか、基準が主観の中に没し去って
しまっているという批判を受けるであろう。そろそろ本レポートは主観と
客観の問題に足を踏み入れねばならない。しかし、その前にもうひとつ特
殊な因果関係を検討しておこう。すなわち物理現象が知覚に変換される瞬
間の因果関係である。神経生理学的因果、あるいは認識因果とでも呼ぼう。
「光が網膜に当たったので、光を感じた」あるいは「鼓膜が振動したので、
音を感じた」などと言うが、光が物理現象なら、網膜細胞の興奮も物理現
象、視神経の伝導も物理現象、脳細胞の興奮も物理現象である。では、ど
の段階で「光を感じた」「音を感じた」といった認識が成立するのか。そ
もそも「私」とは何か。事故で眼球を失っても、私は私であろう。耳は人
工内耳で(不完全ではあるが)代補できる。するとこれらが私の不可欠の
一部であるとは思えない。ではどこまで削ぎ落としていけば「私」が得ら
れるのであろうか。予想できる通り、恐らくタマネギの皮むきの如き事態
に陥るであろう。この問題についても、主観と客観について考察する中で
考えよう。
(3) 客観現実は実在するか?
ヒュームの因果論と、ここまでの議論(因果同名説もこちらの側に含む)
とは、1章(1)「結論説」の項で見たように、主観の外に客観性の場として
の現実(以下客観現実)を仮定するか否かという前提の違いをもつ。結論
説の項で展開した議論では、この前提の違いこそが二つの因果説の分岐点
となる重要な論点である。恐らくヒュームの取った立場(客観現実を否定
する立場)は、論理を突き詰めるという前提をとったなら、否定すること
は難しい。すなわち科学哲学は客観現実について述べた命題が真であるこ
とを保証する論法を模索しているが、残念ながら「[(A⊃B)∧A]⊃
B(AならばB、かつA、ならばB)」がなぜ成り立つのか、なぜ「Aな
らばB、かつA」だと「B」でなければならないのか、「⊃」とは何なの
かという基本的な問に決定的な答えを与えられていない。況や客観現実を
や、である。
しかし客観現実を仮定する立場がさほど見当違いであるとも思われない。
我々にはceteris paribus(他の事情が同じならば、事態に変化は起きな
い)という言葉がある。この言葉を盾に、我々が知っている物理法則は明
日も成り立ち、我々の住む世界は明日も変わらずこのようにある、これが
我々の現実であり実在であり真実であると考えて生きていたとしても、恐
らく決定的に困難な事態に陥ることはない。もしかすると明日起きてみた
ら人間は皆逆立ちして歩いており、魚が空を飛んでいるかも知れない。し
かし、それを恐れて今から逆立ちの練習をすることは、やはり滑稽である。
より本質的な議論としては、以下のような主張が可能であろう。すなわち
客観現実が実在するか否かで二つの論が対立しているとして、その決着は
どのようにつけるのか。懐疑主義の前提に立てば、ここに決着手段は無い。
ヒューム流の懐疑主義は客観現実の不在を実証しているのではなく、客観
現実の実在および不在を実証できないと言っているのである。客観現実が
実在しないと言っているのではなく、それは分からないので、敢えて問わ
ないと言っているのである。すると同名因果説とヒュームの因果論の違い
は「客観現実が実在するか否か」の対立ではなく「客観現実が実在すると
明確に主張するか、それを敢えて語らないか」の違いであるという事にな
る。ヒューム流の懐疑主義は客観現実を敢えて語らないだけで、それを仮
定し語ることは必ずしも否定する理由はないはずである。すると「客観現
実が実在し、そこでは原因と結果にしかじかのような関係が成り立つ」と
語ることと、「客観現実が実在するかどうかは最終的に判らないことだが、
感覚に現れる限りでは、そこでは原因と結果にしかじかのような関係が成
り立つ」と語ることには、プラグマティックに見れば大きな差異はない。
主観の外に客観性の場としての現実を仮定するか否かという問題について
は、「客観現実の実在については問うことを避け、しかし主観の中に感覚
の束として現れる世界において成立している因果関係は、これを記述する」
という折衷案で回避できるのではないだろうか。
しかし、ヒュームはなおも同名因果説と対立する。すなわち同名因果説が
ある性質の継承をもって因果関係を跡づけると考えるのに対し、ヒューム
は因果とは性質の問題ではないときっぱり否定する。その論拠がやや奇妙
な印象を与えるもので、無原因に生じるものを想像「可能」なので、性質
の継承は不要であると述べる。
上記「何らかの法則・理論によって説明しうると考えられる現実の事象間
の関係」という因果の定義を用いれば、無原因に何かが生じる様は、法則・
理論を改変し魔法でも使わない限り不可能である。説明不可能につき、そ
れは因果関係を含まない、と言えそうである。
しかし、ここには既に述べた深刻な前提のズレがあるので、まずはこれを
埋めなければならない。ヒュームは恐らく客観現実をまったく仮定しない
ため、客観現実からの入力に基づく印象と心の中で生まれた印象を弁別す
るメルクマールを失っているのであろう。しかし、たとえ客観現実を仮定
せず、全て印象で説明するにしても、客観現実から入力された(らしき)
印象束と、まったく心中で想像した印象束とでは、「客観現実から入力さ
れたような印象」が伴うかどうかという点で、明らかに違いがあり、両者
を弁別するメルクマールは、しっかり存在するのではないだろうか。また
客観現実を仮定しないとはいえ、印象を総合すると「客観現実らしきもの」
を認識できるが、その「客観現実らしきもの」において、無原因にものを
生じさせられるかといえば、無理というものではないだろうか。すると心
中で想像可能であることと、心中とは明らかに弁別できる「客観現実らし
きもの」からの印象とを一緒くたにして「無因果の存在者を心中で想像可
能だから『客観現実らしきもの』においても因果は無意味」と決断した
ヒュームは、さすがに速断であったとの非難を避け得ないのではないだろ
うか。
また、ヒュームは「因果関係とは推論関係である」と述べ、また「因果関
係は時間的・空間的隣接だけがその条件である」という。このあたりの議
論は錯綜していて理解し難いが、やはり客観現実を仮定しないことが原因
となって、因果関係が極めて単純な物理法則の如きものしか認められなく
なっているように見える。対して現実(ヒュームはこれの存在を疑うが)
には、法学や心理学が扱う因果関係も存在するであろう。所詮全て印象に
過ぎないとしても、もう少し印象の種類を丁寧に分析してみた方が良かっ
たのではないだろうか。
以上の議論から、ここで因果の定義に以下のような修正を加えよう。
「客観現実の実在は問わないが、少なくとも主観に現れた世界において、
その世界の何らかの法則・理論によって説明しうると考えられる現実の
事象間の関係」
(4) 新しい視点・連続体説
ここまで因果関係には敢えて疑問を差し挟まずに来たが、そもそも因果
関係という概念は、世界から分節され独立した「概念」という要素の存
在を前提とし、ある要素を「原因」別の要素を「結果」と称して両者に
何らかの関係が存することを述べる。しかし原因と名指されたり結果と
名指されたりするものは、厳密には独立した要素として抽出することは
できない。たとえば我々はアルコールランプにマッチの炎を近づけたこ
とを原因として着火という結果が生じると考えるが、より細かく見てい
けば、マッチの炎が近付き、アルコールランプ点火部先端から蒸発して
いたアルコール分子団の温度が上がり、アルコール分子団が酸素と反応
し発熱、この熱が連鎖的に新しいアルコール分子の反応を促すことによっ
てアルコールランプは継続的に燃え始める。このアルコール分子の温度
上昇は、原子や量子の状態変化として、より細かく記述することもでき
る。また「マッチの火が近付いた」というのも、マッチの軸に力がか
かって運動を開始し、マッチの先端はマッチの軸と充分な強度でもって
接合されているから、マッチの火は近付くのである。その軸に力がか
かったのは、マッチを持っていた人間の筋運動の結果だし、筋が運動し
たのは神経伝達の結果である。すなわち因果関係は無限に辿れる上、無
限に分割可能であり、究極まで細分したとき、現実とは滔々と流れる川
の水の如く、名付け難い連続体として現れるだろう。
ここで二つの事を確認しよう。第一に、上述の結論として、連続体のど
の部分を取り出して因果としても良いということ。第二に、するとある
行為の原因を行為者に帰することは恣意的な判断だという事になるが、
それでも法学においては被告人を罪に問わなければならないということ
である。
物理学において原因と結果の連続面をどのように分節するも自由である。
しかし、その恣意的な分節によって人間が罪に問われるというのは、や
りきれないようである。ここで罪に問うとは、本来ならば因果関係の網
の目の中に位置づけられるべき人を、「自由意志」という語によって彼
以前の因果関係から分離し、この瞬間の問題の究極的原因として彼を名
指すことである。そのようなことが、果たして許されるのであろうか。
しかし、恐らく社会的に見て、このような罪−罰体系で人間を処理する
ことが適応的だからこそ、このような制度が用いられているのであろう。
原因はいくつか考えられるが、第一に、個人は意志をもつ持続者である
ということが挙げられる。すなわち人間はしばしばひとつの意志を長期
にわたって持ち続ける。狂信的な宗教・政治組織のメンバーで、反社会
的行動を繰り返す者がいたとして、彼は反社会的行動をやめないであろ
う。従って彼を説得したり、彼のような人物を生み出す原因を断つこと
より、まずは彼を裁くことが手っ取り早い。第二に、「罪人」の排除に
は社会的同意が得られるという理由が考えられる。貧困がテロリストを
生み出すとして、この貧困が援助で何とかなるとしても、援助に莫大な
費用をかけることに対して懸念を表明する者はどうしても現れる。しか
し既に誕生したテロリストを逮捕し武器を押収することに関しては、賛
成こそすれ反対する者は少ない。第三に、端的に容易であることを挙げ
よう。絡まった因果の網の目を解きほぐし、犯罪行為を根本から断つに
は、どうしたら良いのか、そもそもよく判らない。しかし一人の犯罪者
を処理するのは比較的容易である。罪を明らかにし、適切な罰を決定し、
後は服役なり謹慎なりさせるだけである。第四に、生物学的説明をも試
みよう。人間の敵は人間だということである。野生動物にとり、目の前
の競合他者の排除は唯一の生存の道である。そこから発展して、我々は
他者を責めるという思考回路を既にして持っているのかも知れない。
こうしたことから、人は人を裁くようになるのではないか。だとすれば、
やはり恣意性が目立つ。