ヒュームはヨーロッパの伝統的な因果概念に反する因果説を提起した。
なぜ彼がこのような因果論を打ち出したのかを考察する。「なぜ」とい
う問はある結果に対する原因を求める問であるから、この章は因果論に
関する因果関係の考究である。
あるひとつの現象について、我々は複数の因果関係を指摘できる。たと
えば、なぜアルコールランプは点火したのかという問に、「燃料が充填
されていたから」「火が近付き点火部の温度が上昇したから」「実験者
が火をつけたから」等々、様々な答え方ができる。同じように「なぜ
ヒュームはヨーロッパの伝統的な因果概念に反する因果説を提起したの
か」という問にも様々な答え方ができるようである。ヒュームの論その
ものの中に原因を認める考え方と、ヒュームの論が形成された背景に着
目する考え方との二つが、とりあえずは思いつく。
ヒュームの論そのものの中に原因を認める立場には、彼の採用した因果
論が彼の他の議論から必然的に導かれる結論であると捉える見方(以下
これを結論説と呼ぶ)と、彼にとってこの因果論こそが大前提であり、
この因果論から他の議論を組み立てたと見る考え方(以下前提説)が可
能であろう。また背景に着目する立場には、ヒューム個人がもつ背景に
着目する考え方(以下性格説)と、ヒュームを含む時代に原因を求める
立場(時代精神説)とがあり得る。
この四つの立場のうち、唯一ヒュームの因果論の真実性を担保するのは
結論説のみであろう。すなわち結論説はヒュームが正しい前提から正し
い推論を用いて件の因果論を導いたという論法の余地があるが、前提説
はヒュームにとってこの因果論はある種の形而上学であったという結論
を暗示しており、この因果論の正当性をヒュームはきちんと論証してい
ないか、一応論証しているにしても、初めから正しいという結論を予定
した上で、その結論を支持する理由をかき集める形で論証が組み立てら
れたのではないかと疑う方向性をもつ。性格説と時代精神説は、いずれ
もヒュームの主張を彼個人、あるいは彼を含む時代のもつ、ある偏向に
帰する立場であり、時代が変われば哲学も変わるといった考えと通底す
る。
(1) 結論説
ではヒュームの因果論をどのような立場から読み解くかという事だが、
結論説で読み解くことは一応可能であろう。伝統的な同名因果説はある
個物と個物の間に、ある性質の継承関係が存在すると説く。対するヒュー
ムはデカルトの懐疑を真に受けて、論理的に実証できない物は全て排除
した。徹底的に論理に従った結果が、実在として主観の内に現れる感覚
のみを認める立場であり、この立場からは「原因」と名指される個物や
「結果」と名指される個物を実在として仮定し、それら個物の性質に因
果関係を担保させることはできない。我々は感覚から因果関係を類推す
るのであり、それは何が真実であり真実ではないかを決定する客観性の
場(=主観の外部)を否定している以上、飽くまで類推の域に留まり、
「正しい推論」とは言えない。この因果論は徹底的に論理に従うことの
論理的帰結であり、故にこの因果論には真実性がある、と。(もっとも、
ヒュームの論に従えば、この真実性の感覚すら精神に現れたひとつの印
象に過ぎないという事になってしまうのだろうか)ヒュームの論の展開
においても、因果論は他の議論の帰結として、比較的あとに出てくる。
(2) 前提説
にも関わらず、ヒュームの因果論は彼の形而上学であったのではないか
という前提説の立場からの疑いは晴れない。議論がやや性格説や時代精
神説と重なるが、イギリスがピューリタン革命から名誉革命に至る宗教
対立の時代を乗り越えた直後の18世紀という時代的背景や、『人間本性
論』にも見られるイエズス会に対する否定的な言辞などから推すに、
ヒュームは何が正義で何が悪か、その根拠(理由−結論関係は原因−
結果関係と重なる。根拠は原因とも読み替えられる)は何かといった
言説を主観性の中に幽閉することで、原理主義的な宗教勢力の主張を
足下から掘り崩そうとしていたのではなかったかと考えられる。つまり
ヒュームはまず宗教勢力を沈黙させたかったのであり、そのために宗教
勢力の繰り広げる論理を「いくら屁理屈を捏ねたところで、その根拠は
所詮印象と観念の恒常的随伴に過ぎぬ」という形で、その論理を展開す
るという行為そのものを否定し、論理全体の根底を破壊しようとしたの
ではないか。
(3) 性格説
性格説からヒュームを読み解くには、ヒュームについて伝記的調査を
詳細に行い、彼の人間像を浮かび上がらせ、また彼の著書を多く読み
こなして行間に現れる彼の本音を聞き分けなければならない。それは
膨大な作業であって、本レポートの及ぶところではないが、大体にお
いて上記前提説に述べたような内容になろう。彼は原理主義宗教に対
して強い反発を感じており、このヒュームの性格・性癖がこのような
論を採らせたのではないかという説である。ヒュームの生い立ちを調
べて、ヒュームがそのような性格を身につけるに至った過程を説明し、
この説を補足する事もできよう。論理に強い人々はしばしば宗教的な
「信じる」という行為を軽蔑しがちなことや、ヒュームが宗教対立に
よる流血に対し憤りを感じていたこと等を(些か薄弱ながら)根拠と
して挙げることもできるかも知れない。
(4) 時代精神説
時代精神説はヒュームが生きた18世紀がイギリスにおいては宗教対立
による内乱の時代に続く世紀であったということや、この世紀がニュー
トン物理学の世紀であったことを理由として挙げることになろう。すな
わち同名因果が唱えられた時代においては、現代の生物学に繋がるよう
な動植物の観察は盛んに行われたであろうが、現代の化学・物理学に繋
がるような営みは、哲学者の良くするところではなかったのではないか。
西洋周辺において多様な化学現象を本格的に観察するようになったのは
中世ヨーロッパかアラブの錬金術師あたりが最初であろうし、物理学に
ついては力学研究が特殊な閉鎖的集団としての建築家によって為され、
光学研究はガラスの成形技術が発展する前には行い得なかったと考えら
れる。いずれにせよ因果同名説を唱えた哲学者・神学者達は、自然とい
う名で主に動植物を連想していたと考えられ、ある性質を持った物から、
その性質を受け継ぐ物が産出されるという同名因果の考え方は、彼らの
時代背景に適合的である。一方ヒュームの因果説は徹底的な論理性の追
求である。ヒュームの時代にはニュートン物理学が開花し、運動方程式
によって地上の事物から天上の惑星の運行までが悉く同一の式によって
記述される時代であった。この単一の原理の全世界への貫徹を哲学に移
植したのが、ヒュームの論理性の貫徹であり、論理的に実在の実証でき
ない物(それは全てである)を排除した結果がヒュームの因果論である
と考えられる。
しかし、以上に述べたような事はあまり本質的ではない。ヒュームの説
を対象として歴史研究の如きアプローチをするのは哲学のあるべき姿と
は言えまい。本レポートはヒュームの因果論(あるいは同名因果論)が
どれほど説得力を持ち、どのように有用であり、どこに無理があり、ど
のように改定されるべきか、つまり我々自身の因果論をどう形成するか
という問題との関連において、主体的なアプローチを試みる。