<自我の探究>

制作日:2002年

本レポートは大学で心理系の講義をいくつか担当していた講師に提出した自主
レポートである。文系的教養も豊富な講師で、講義は非常に刺激的であり、そ
の講義の成果を示すと共に、自分の思索の展開を示したいという思いが私の中
に頭をもたげ、ついに自主レポートという形を取るに至った。
しかし提出させて下さいと言いだしてから、いつまで経っても思うような文が
纏まらない。知識が足りないので思考実験を武器にすることになるが、すぐに
事実の確認が必要になるなど、困難にぶつかる。結局、投げ遣りな形でテーマ
を縮小して提出することになった。

第1部は「精神現象の探求における哲学的考察の重要性」というタイトルの下、
神経科学に思考実験で挑む事を正当化する論を展開しようと試みた。間違った
ことを述べたとは思わないが、あまり力のない苦しい論である。

第2部は「自我の探求」と題し、最終的には、自我とは記憶をベースとして、
様々な精神を構成するモジュール間の葛藤の中に生じる、一個の状態として描
き出すことを目指した。デカルトが自我を一個の実在と仮定していた可能性を
述べ、それを批判する、という方向性ももっている。しかし、未完のまま挫折
している。

書いた本人は提出したきり忘れていたのだが、最近になって、提出先の講師に
ときどき読み返す事があると言われ、光栄やら恥ずかしいやらで戸惑ったもの
の、これもまた私の思索の軌跡であると思い至り、自ら読み直すと共にここに
掲載した。

  1. 精神現象の探求における哲学的考察の重要性
  2. 自我の探求

また、当時用意したデータを見ると、奇妙な図が2、3用意されている。これ
は「自我」を人間身体の中のどこかに宿るもの、一個の機能として捉える思考
法の無理を指摘しようとした物らしい。

一体何を論じようとしていたのか。思い返してみると、以下のような事だった
と思われる。

このレポートが指摘する主体/客体の断絶、認識/情報の断絶は、通常「自我」
なる概念によって説明される。人間には自我があり、これが認識の主体となる。
自我の無い「物」は客体に過ぎず、それが担う情報は決して認識されたもので
はあり得ない。
そこで「自我とは何か」という問題が生じるが、このレポートは自我に関する
一つの見方、自我を人間の内部に宿っている、一つの実体的なもの(機能)と
見る考え方を批判しようとしたのだと思われる。

我々は手や足を損傷しても、その事で自分が別人になってしまうとは考えない。
手や足の損傷は自我を傷つけない。すると身体の一部が欠落しても自我は完全
な状態で保存される、すなわち身体の少なくとも一部は自我と関係ない、ただ
の機械や道具の類であり、身体と非身体の境界線より、自我と非自我の境界線
の方が、より内側、より深部にある、という考えが導かれる。我々の多くは、
自我は自分の脳に宿るもの、脳の機能だ、といったイメージを持っているので
はないだろうか。

この「身体の中に自我が収まっている」という入れ子状のイメージを採ること
は、しかし、ある問題を生じさせる危険がある。人間から非自我を削ぎ落とす
と、本当の私=自我が得られる、という考え方は、あたかも人間身体というロ
ボットの中に「本当の私=自我」という名の小人が入っており、この小人が人
間を操作しているかの如くである。
しかし、その小人とは何者か。おそらく脳が第一候補であろうが、脳もまた、
多分に機械的な存在である。たとえば、視覚刺激はまず大脳の後頭葉に入って
いくが、後頭葉の神経細胞が行う情報処理は、複数の神経細胞からの情報入力
を綜合して、ある種の形状が視野の中に含まれるかどうか、視野のどこにある
か、動いているか、どちらの方向に動いているか、といった特徴を抽出する事
くらいである。では、脳内の神経核のどれかか。しかし、個々の神経核が行う
こともまた、あまりに機械的なのではないか。これはタマネギの皮むきの如き
ものである。

要するに人間の中に小人がいる、という考え方は、その小人の中に小人がいる、
という形で無限後退を引き起こす、いわばマトリョーシカ(※)問題とでも呼ぶ
べき事態に陥る危険を孕んでいる。

※ロシアの民芸品。木製の人形の中に、小さな別の人形が入っている

マトリョーシカ問題を回避するには、どこかで後退を止め、それ以上の分割を
止め、その時点での全体が自我を形成すると考えねばならない。人間を分割し
た、その部品のどれか一つが自我を担うというのではなく、一個の人間が全体
として自我を形成する。

レポート執筆時の漠然とした考えでは、主には脳のいくつかの神経核、組織が
記憶や情動や価値判断などと呼ばれる機能を生みだしつつ共同作業によって自
我を生み出すが、末梢も意外と大きな働きをしている、といったものだったよ
うに思う。

また、自我とは確執である、等という仮説も持っていたように思う。すなわち
人間を単純に生存し子孫を残そうとする存在と考える(行動遺伝学の見方は、
だいたいそんなところであろう)と、人間は外部からの情報入力に対し、その
情報を処理し、適当な反応を返せば充分ということになる。つまり人間は情報
が入力され、反応が出力される管か、ブラックボックスの類という事になる。

しかし、それなら自我などというものは必要無いはずではないか。「私」など
と言わなくても、刺激Aに対して適切な反応aを返していればよい。ある種の
計算機であれば充分だ。あるいは社会生活を送る上で他者とコミュニケーショ
ンを取るための「主体」が必要になったと言われるかも知れないが、それとて
他者からの働きかけという刺激に対し、一見「主体」があるかのように見える
反応を返せば充分だ。

そこで考えてみると、我々は事がスムーズに進んでいるときには、我を忘れて
いるのではないだろうか。自我が強烈に意識されるのは、自分の中に葛藤があ
る時ではないか。だとすると、我々が「自我」と呼んでいるものは、実は欲求
と欲求、記憶と意識といった複数のモジュールの葛藤、その抵抗感なのではな
いか。

現代の脳科学が、感覚器官から情報の入力を受ける「浅い脳」の機能は明らか
に出来るのに、情報が伝達され、他の感覚情報とも混合される「深い脳」の機
能を明らかに出来ないことは、この自我を巡る見方が充分には考察されていな
いこと(これが第2章のテーマであった)や、脳機能を探究する際に用いる概
念が十分に検討されていないこと(これは第1章のテーマである)と関係があ
るのではないか、と当時の私は直感していたらしい。具体的には、脳のどこか
に一つの機能として「自我」というものが発見されるという考え、あるいは脳
の個々の部分が「記憶」「感情」などの言葉で表される独立した機能をもつと
いう考えに無理があると考えていたようである。脳の各部位の機能を、もっと
曖昧模糊とした様々な現象の結合と考え、その複雑な結合のままに理解する。
個々の脳部位の機能を「記憶」「感情」などの言葉で表される独立した機能と
して同定する努力は放棄する。そうすることで、何か新しい知見が得られるの
ではないか──

もっとも、これもレポート執筆時には気付いていた事だと思うのだが、こうし
た説明では、このレポートが指摘する「自我」なるものの革命性を説明できた
という気はしない。我々の実感では、人間は主体となり、責任をもって情報を
「受け止め」そして「入ってきた物に手を加えて吐き出す」という程度の問題
ではなく、自由意志に基づいて「行動を起こす」という事になる。入力された
情報を加工し出力するだけでよいはずの管の中心に、「自我」なる詰まり物が
あり、入力はここにドシンとぶつかるし、ここを発生源として出力は為される。
この感じ、自我という実態が我々の内に存在するという感じ、このどうしよう
もない、他に任せることの出来ない、誰かに代わってもらうことのできない、
「わたし」という感覚、これは本当に精神を構成する諸モジュールの間の葛藤
などであり得るのだろうか。

これは恐らく脳科学の問題ではない。あるいは哲学の問題ですらないかも知れ
ない。「AはAである」という当たり前の命題がどうしても説明できないのと
同じような類の問題かも知れない。