2.自我の探究

 我々はしばしば無意識に「自我」の存在を仮定して議論を進める。「各人がその
精神機能のうちに『自我』を有する」これは現代に広く浸透した常識的考えであろ
う。しかし、自我とは何か、と考え始めると、そこには様々な問題が残されている
ことが分かる。ここで「自我の成立についての問題」と「認識の問題」を検討しつ
つ、「自我とは何か」という問いを考えてみたい。


1.自我を巡る2つの問題

 デカルトは自我の存在を松果体に求めたという。それは「脳の構造の大半が左右
一組2つずつ存在するが、松果体は1つしか存在しない。よって唯一無二の自我が
宿る座である可能性が高い」という理由によった。しかし、仮に松果体が自我の宿
る場であったとして、松果体の中で何が起きていれば、そこに自我が宿りうるので
あろうか。デカルトの述べる「松果体が自我の座である理由」は状況証拠に過ぎな
い。

 現在の脳科学においては、松果体が自我の宿る場であるという考えは顧慮されな
いようである。しかし、自我の座をどの神経核に求めるにせよ、あるいは複数の神
経核を含む大脳の比較的広い一部、大脳全体、脳幹を除く中枢神経系、全中枢神経、
はた神経組織全体、身体全体等、どのような範囲を自我の座と想定するにせよ、そ
の「自我の宿る場」において、何が起きていれば「自我」なるものが成立可能なの
か、この問いは未だに有効である。思えば「自我」とは革命的な現象である。ただ
の物質には、自我が無いように感ぜられる。土の塊を2つ併せて捏ねたからといっ
て、他人と一緒くたにされたと土が抗議するようには考えられない。しかし、キリ
スト教において土から生み出されたとされるヒトは、他者と一緒にされることで怒っ
たり喜んだりする。土は乾こうが湿ろうが構わないだろうが、ヒトは湿りすぎたり
乾きすぎたりしない、自己にとって心地よい環境を求める。土に主観も評価もなく
自己主張もあり得ない。ヒトは主観に基づいて評価し自己を主張する。土の世界は
均一な無意味の砂漠である。ヒトの世界は意味と偏向に満ちた熱帯樹林である。土
はどこまでも客体でしかあり得ないが、ヒトは自我によって主体たり得る。土とヒ
トの間、物質と人間精神の間には、いかんともしがたい断絶が横たわっているよう
に見える。この世界に魂だ霊魂だといった実体を仮定せず、人間精神は神経細胞の
機能であると考えたとき、いかに複雑であるとはいえ物理法則に従う物質の集合体
たる神経組織が、一体どうすればこの断絶を乗り越えて「自我」という機能を発生
せしめることができるのか。

 また、「認識」を巡っても自我に絡む問題が発見される。

 視覚情報の処理を考える。光刺激は網膜の視細胞で神経興奮に変換(視細胞の細
胞膜が暗時に分極し明時に脱分極する事は、この際割愛する)され、網膜内である
程度の処理を受けた後、外側膝状体・一次視覚野・二次視覚野と処理され、やがて
前頭連合野あたりへと情報が送られてゆく。さて、視細胞に光刺激が達する一瞬前
には、それは単なる物理的な刺激であり、情報である。ところが、それがどこかで、
主体によって受容された情報、「認識」へと変質する。物質に対して自我という現
象が革命的であったように、それと対応する形で、単なる物理刺激に対して認識と
いう現象は革命的である。
 問題は、この物理的刺激から認識へという革命的変質がどの段階で、如何なるメ
カニズムによって可能となるか、ということである。仮に「自我」を特定の中枢神
経の一部に宿る機能であると仮定すれば、視細胞が光刺激を受容した時点では未だ
認識は成立しておらず、従ってより後の段階で物理的現象でしかない神経興奮が、
何らかのメカニズムによって「認識」を生み出すという事になる。一方、身体の特
定の一部位を自我の座として取り出すことはできない、一個の身体全体が1つのシ
ステムとして自我を担っているのだと仮定すれば、視細胞が光刺激を受容すること
がすなわち自我が認識を行うことである。前者の仮定をとると、神経組織はどこま
で行ってもニューロンという、刺激を受け興奮するという点で何ら変わりない、本
質的な差異を持たないように見える同一種の細胞によって担われているにも関わら
ず、網膜の視細胞の興奮は認識ではなく、認識はより上位の中枢で成立するという、
そのメカニズムの説明が難しいように思える。視細胞において光刺激が神経興奮に
変換される、この変化以上の革命的変化が、更に別の場所で起こっているというの
だろうか。刺激は感覚器官と自我という2つの関門・2つの境界面によって、2度
に渡って受容されるというのだろうか。一方後者の仮定をとれば、自分の目に映っ
たものは自分が認識したものだ、という感覚を満足させてはくれるものの、脳から
これほど離れ、光が当たると興奮するという極めて単純な活動しかしない網膜の視
細胞が、自我の一角を担っているという考えは納得しにくい。自我とは光が当たれ
ば興奮するといった単純なものではなく、もっと霊妙不可解なものであるような、
気がする。視細胞の興奮が自我による認識と物理刺激と、どちらに似ているかとい
われれば、物理刺激に似ているように思われる。

 以上2つの革命的変化を指摘した。「自我の成立についての問題(以下簡略化の
ため「成立問題」と称する)」においては客体から主体への、「認識の問題(以下
「認識問題」)」においては情報から認識への、それぞれ質的な変貌が、生命も所
詮は物理法則に従う物質の集合であるにもかかわらず、どうして可能となるのか、
問題が提示された。以下、この問題を考えることを通じて、自我という概念を検討
したい。


2.「自我」概念の検討1 〜先行すべき概念枠の検討〜

 ここで「自我」という概念枠を軽く検討しておく。最終的には既述の2つの問題
を検討しつつ、より突き詰めて概念を検討するが、その下準備として「自我」概念
をある程度は叩いておかなければ、あまりに論の基盤が安定しないように見える。
そこで下準備としての軽い検討が必要との判断である。
 ただし、これが「自我」というたった1つの言葉に、より正しい定義を与えよう
とする試みではないことを注意しておこう。そもそも自我という言葉は、いささか
漠然としすぎている。従って事前の予測としては、漠然としすぎた「自我」という
言葉はひとまずおくことにして、「自我」をより細かい概念に分割し、その1つ1
つの言葉について定義を与えてゆく方向を目指すのが良いであろう。「自我という
単語の定義は何か」という問いに、現状におけるこの語の使用状況や現在の知見に
照らし合わせて正しい答えを与えようと試みることには意味が無く、むしろこれか
ら明らかにすべき未知の知見に向けて、その解明のために「自我という単語をどの
ように扱うのが適切か」と問うのが有意義なのである。そしてどのような扱いが適
当かと言えば、現象をどのように分割して理解するのが適当かはっきりしない以上、
異なる現象を同一の概念に括ってしまうことが少しでも少なくて済むように、でき
るだけ概念を細分し、細かい概念の枠組みを用いるのが適切と考えられる。

 まず、「自我」と近い概念として「意識」がある。我々は意識せずに行ったこと
については、「私はそんな事をしただろうか」と疑う。我々が「私は確かにそれを
した」と述べるのは、意識のもとに行った行為のみである。意識にのぼることと
「私」が認識することが同じであれば、意識≒自我という考えも成り立ちうるかも
知れない。しかし、一方で自己の心の一部として「無意識」というものの存在を仮
定する考えもある。こうした考えは、場合によっては「意識+無意識=自我」とい
う解釈を許すだろう。
 また、「自己の身体」という概念も「自我」と関わる概念である。腕の一本や足
の一本なくても自分は自分だ、という考えは、同時に身体は自我の付属物であって、
自我その物、あるいはその一部ではないとの考えを内在している。一方で、体の一
部を損傷すれば、どんなに微細であっても、やはりそれによって自己は変化する。
故に身体は自我の一部だとする考えもあろう。この考え方の対立は、身体の一部で
ある感覚器が刺激を受容したことを以って、即自我による認識の成立と考えるかど
うかという問題とも共鳴する。

 さし当たって、一個の身体によって画される『私』の範囲を「自己の身体」とし、
その刺激受容を「身体における受容」と称する。身体が受容した情報は、あるもの
は意識に登り、そこで処理される。またあるものは意識に登らぬままに処理される
だろう。そのシステムによって処理された情報は意識に登った情報でもあるような、
そのようなシステムを「意識下の自我」と称し、意識下の自我が認識した内容を
「意識下の認識」と称する。(ここで自我という語を用いる事は、以下のような事
実を意味する。すなわち、自我の一部が意識からはみ出るような自我の定義が存在
することは既に述べたが、逆に意識の一部が自我の範囲からはみ出るような自我の
定義は本論では視野に入っていないことから、自我⊃意識という包含関係を仮定し
たという事実)意識に登らない情報処理経路は「意識外の経路」と称し、そこでの
情報処理を「意識外での情報処理」と呼ぶことにする。


3.「自我」概念の検討2 〜認識問題より〜

 認識問題を巡って、「物理的刺激から認識へという革命的変質がどの段階で、
如何なるメカニズムによって可能となるか」という問題提起が為された。では認識
の過程を、例を挙げて今少し詳細に検討しよう。ただし、ここで挙げる例は【2.
「自我」概念の検討1】において示された自我を巡る様々な概念の、その相互差が
明確に現れるような例が好ましい。そのような例として、反射や条件反射、あるい
は「反射的な」と言われるような行動について考察しよう。

 例えば膝外腱反射だが、被験者が膝を叩かれるまでまったく気付かなかったとす
ると、膝を叩くことで与えられる刺激は、まず膝周辺に分布する皮下の各種感覚器
官によって受容され、「身体における受容」は成立する。ここから刺激は最低2つ
のルートを辿る。すなわち、一方は脊髄を介して足の運動神経へと興奮を伝達し、
足の筋を動かす。もう一方は脊髄を登って大脳に達し、体性感覚野の細胞を興奮さ
せるなどし、恐らくはこのルートのどこかで「膝を叩かれた」という「意識下の認
識」が成立するであろう。
 また、酸味の強い食べ物を見ると唾液が分泌されるという条件反射を例に取れば、
網膜がその食べ物から反射した光線を受容した時点で「身体における受容」は成立
する。ここから刺激はやはり最低2つの結果を引き起こすが、ルートも二つに分か
れるかどうかははっきりしない。最低2つの結果とは、1つは唾液の分泌であり、
もうひとつは「酸味の強い食べ物がそこに見える」という「意識下の認識」の成立
である。
 「反射的な」と言われるような行動の例として、顔めがけて飛んできた飛来物か
ら顔を守ろうと手をあげる動作を考える。飛来物に最初に気付いたのが視覚を介し
てであれば、網膜が光を受容した時点で「身体における受容」は成立。それから
とっさに手が出るだろう。飛来物が当たるなり外れるなりし、その人は何が飛んで
きたのかを確かめる。石だ。周りを見回す。歓声を上げて逃げていく子供がいる。
あるいはいきり立った暴徒が向かってくる。怒るなり、恐れるなりする。

 反射の例における足の運動や、条件反射の例に見られる唾液の分泌は、我々に
「勝手にそうなってしまう」という印象を与える。これらの身体反応は「身体に
おける受容」が成立した後、それに対して身体が反応したものであるが、これを
自我が行った行為と述べることには抵抗を感じる。むしろ、自我がどんなに足を
動かす必要はない、唾液を分泌する必要はないと念じていても、「自我に反して」
その身体反応が起きてしまう、というイメージが、感覚的に良く馴染む。すると、
我々の感覚においては「身体における受容」と「自我の認識」の間にズレが存在
する場合があると考えられる。
 また、この2つの例において「意識下の自我」と「意識外の経路」との構図に
ついて、1つの示唆が得られる。すなわち、ある1つの出来事は「意識下の自我」
か「意識外の経路」かのいずれかのシステムで処理されるのではなく、しばしば
双方のシステムによって同時進行、並行的に処理されるということである。
 さらに、反射の例と条件反射の例を比較することで、「意識外の情報処理」内
の多様性が指摘されるだろう。すなわち、脊髄レベルで処理されるものもあれば、
大脳内部で処理されるものもあるということである。その処理部位は多様であっ
て、その処理部位の多様性に対応して、おなじ意識外での情報処理でも、可塑性
等、性質の違いもあるであろう。
 最後に、反射的な行動の例として示した飛来物回避においては「意識下の認識」
内にもまた、多様な分割して考えるべき要素が存在するように思われる。この例
では、自我の認識にも(少なくとも)3つの段階があるらしいことが示唆されて
いる。すなわち、とにかく何かが起きていることを瞬間的に認識する段階と、何
が起きたのか宣言の形で理解できる段階、そしてその意味を判断する段階である。
試みに、それぞれ「瞬間認識」と「理解」そして「判断」と名付けよう。

※以上、原稿断絶