1.我々の興味と科学的事実とを架橋するものとしての「考察」
「人間の精神活動について知りたい」という我々の願いは、脳科学の実験観察や
動物行動の研究のみでは、果たされることはない。なぜなら、純粋な実験や観察に
よって、個々の事実は明らかにできるだろうが、それが何を意味するのかは分から
ないからである。ある神経核を刺激すると、猫が怒ったような表情を見せる。それ
は1つの事実として興味深いが、我々が知りたいのは、例えば「人間が『怒る』と
はどういうことか」といった事柄であって、「猫がある神経核を電気的に刺激され
るとどのような表情を見せるか」などという事ではない。従って、「ある神経核を
刺激すると、猫が怒ったような表情を見せる」という事実から、それが何を意味す
るかを明らかにするための「考察」が必要になる。
研究者として理科学研究に明け暮れていると、この単純な事実を忘れて、目の前
の問題を解くことにばかり熱中し、その意味を考えることが等閑になるという事が
あるのではないだろうか。猫の脳に電極を突き刺して、ある神経核を刺激したら猫
は怒ったような表情を見せた。だから我々人類も、この神経核の興奮によって怒り
が生じるのだ、などと主張してしまう。論理的に考えれば、そこにはまだまだ問題
があり、この結論は跳躍以外の何者でもないのである。まずネコとヒトが同じ「怒
り」という感情を共有するのか、定かでない。人間が腹立たしく思うことと、ネコ
が歯を剥くことは、まったく別の精神現象であるかも知れない。仮に同じ「怒り」
という感情を共有するとして、ネコが怒っているような表情を見せたことが、その
ネコが怒っていることを意味するかどうか、定かでない。怒ってもいないのに表情
筋が硬直し、ネコは戸惑っているかも知れない。仮にこのネコが確かに怒りを感じ
ているとして、これはあくまで実験環境であり、実際の生活の場において同じメカ
ニズムで怒りが生じるかどうかは、検証実験を待たねばならない。そして、仮に、
正にこれがネコの怒りのメカニズムであったとして、それで人間精神についてどれ
だけのことが明らかになったのかは、改めて考察せねばならない。ある神経核が興
奮した際に我々が怒りを感じるとして、その神経核は如何にして興奮を開始するか
は改めて研究せねばならないし、その神経核が興奮すると、なぜ怒りという感情が
生じるのか、その説明が為される必要があろう。また、その神経核の興奮と怒りが
関係を持つとして、故に、怒りとは何であり、どう向き合うべきものか、という最
後の結論に至っては、極めて哲学的な問題になってくる。
綿密な実験観察に、粗雑な考察をくっつけて纏めた論文では、我々の人間精神に
対する興味は満たされない。しかるに、どうやら実験観察は素晴らしいのに、考察
の段になって竜頭蛇尾という例は多いように感じられる。そうだとすれば、誰かが
考察を行わねばなるまい。
2.科学研究を導くものとしての「考察」
精神現象についての我々の興味を満たすには、実験観察ばかりでなく、その結果
が何を意味するのか、意味についての考察が不可欠である。では、意味についての
考察が不十分だと、どうなるか。それでも科学的事実が1つでも明らかになればよ
いが、面倒なのは、粗雑な意味付けが科学的事実を歪める、という可能性である。
たとえば、感情についての研究を考える。William Jamesは感情の抹消起源説を
説明するために、以下のような美しいレトリックを用いた。
我々は悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのである。
我々は腹が立つから殴るのではない。殴るから腹が立つのだ。
このとき、彼は悲しみと怒り(=腹が立った状態)を無自覚に同列のものと考え
ていたのではないだろうか。実際は、怒りと悲しみが同じシステムのバリエーショ
ンであるという証拠は無い。ただ、我々が慣習的に怒りと悲しみを「感情」という
同一のカテゴリーにまとめているというだけの事である。この点では、あるいは感
情の中枢起源説を採る人々も、またWilliam Jamesの後継者を名乗るShachterも
同様かも知れない。もし怒りと悲しみがまったく異なる脳内現象であったとしたら、
これらを一緒くたに考える限り、実験から読みとれることも読みとれなくなり、読
み取るべきでないことを読み取ってしまうだろう。科学的事実の解明に手間取るこ
とは必至である。慎重な論理的考察は、研究の方向性を導く上でも重要なのである。
3.考察の重要な対象としての「概念の枠組み」
精神現象を明らかにする上で、考察は重要な役割を持つにもかかわらず、等閑に
される傾向があるようである。ところで、その重要な「考察」とは、具体的に何を
対象とすべきなのだろうか。
研究の方向性を定める上で考察の対象とすべきは「概念の枠組み」である。ある
いは「問題設定」と称しても良い。問題設定は明確でなければならない。概念の枠
組みは適切でなければならない。
では「問題設定が明確である」とはどういう事か。どのような概念の枠組みが
「適切である」と言えるのか。適切な概念枠とは、まったく異なる複数の事象を
同一の概念に括ってしまうような事のない概念の枠組みである。例えば、風邪と
インフルエンザを同一概念に括ってしまえば、処方すべき薬を誤る。インフルエ
ンザに抗生物質は効かない。このような一見よく似ているが、その実まったく別
の事象、という例は、ヒトの精神現象を考える際にはいくらでもあるように感じ
られる。例えば、喜怒哀楽は全て「感情」と一括りにされるが、果たして同じ
「感情」という現象のバリエーションなのか。そうであれば、Shachterのラベ
リングの考え方は正当性があると言えよう。しかし楽しさと腹立たしさが根本的
に異なる事象であれば、彼の行った実験は何を確かめたのか、分からなくなる。
あるいは、破顔一笑の笑いと軽蔑のせせら笑いに違いがあることは誰でも認めよ
う。では、笑いは一体いくつの概念に分類せねばならないのか。また、それらは
互いにどれだけ異なっているのか。どこまでは共通するのか。こうした検討を等
閑にすると、意味のない実験で早とちりな論文を書くことにもなりかねない。異
なる事象を1つの概念に括ってしまわないような概念枠を立て、その概念枠の中
から問題とすべき概念を取り出すことで、明確な問題設定を行う事が望ましい。
逆に、どんなに複雑怪奇と思われる精神現象も、ある程度適切な概念枠を立て
ることに成功し、明確な問題設定を行えば、ある程度の成果は得られる。脳機能
の障害から「言語障害」という現象を取り出し、一個の概念として独立させるこ
とで、ブローカ・ウェルニッケの各言語野が発見された如く、である。(ただし、
これが完璧に適切な概念枠であったかどうかは分からない。より細分する余地が
発見される可能性も大きい)
概念の枠組みの適切さは、しばしば一個の症例によって与えられているようで
ある。ある症例が見つかると、その症状が一個の現象であると仮定して、単一の
概念に括って、研究を開始する。たまたま(奇妙な言い方になるが)その症状が
研究対象として適切であれば、その研究は成功する、という具合である。しかし、
もし研究とはこれだけのことであれば、研究者の個性があまりに矮小化されよう。
(不謹慎な言い方だが)優れた研究材料としてのうまい症例が見つからなければ、
研究者はそれを考察で補うことができる。概念の枠組みの適切さを考察の確かさ
によって獲得することは不可能ではなく、むしろ必要なのではないだろうか。考
察を重視し研究の方向性を定める役に立てられれば、我々は精神現象についての
知識に、より近づくことができるのではないだろうか。