2005年6月、知人の画家いしだ典子氏(リンク参照)に誘われ、仲間と原宿の
画廊を一週間借りグループ展を開いた。その際出展した2点のうちの1作品。
この作品は、一応パフォーマンススタイルという事になっている。初日の時点
では、この作品は赤系色に統一された風景写真のコラージュを背景に、六枚の
薔薇の写真(モノトーン)が配され、中央の薔薇は枯れていなかった。しかし
会期中に薔薇は刻々と枯れてゆき、周囲の六枚の薔薇の写真は毎日その日撮影
された枯れゆく薔薇の姿に置き換えられてゆく。そして画面全体に走り書きの
ようなメモが増えてゆく。すなわち、会期中に枯れてゆく薔薇の花を見つめて
いて、感じたこと、雑感を書き留めては、画面の上に貼っていったのである。
そのテーマに共感した人には、非常に気に入ってもらえたようだ。
やや変わった形式で作品を制作したわけであるが、よかった点・悪かった点を
挙げると、よかった点は、その場で思索が展開されるライブ感が楽しめた事、
正にその場に枯れゆく薔薇そのものがあったことでインパクトが強かったこと
等が挙げられるだろう。一方悪かった点としては、パフォーマンスと言うには
パフォーマンスそのものがインパクトに欠ける点、生花の迫力に物を言わせて
インパクトを稼ぐのは安易ではないかという問題、絵画・彫刻スタイルの作品
と一緒に展示するには釘を刺す動作が鑑賞の邪魔になる点、全体の印象にキレ
がない点、販売できない点等が挙げられよう。加えて文字は非常に印象が強い
ため、画面上に配する場合はよほどイメージをぼかす必要があるという問題に
気付かされた。芸術作品は飾って鑑賞するものであるため、例えば絵画に文字
が含まれていた場合、その文字は座右の銘宜しく壁に鎮座し、それを購入して
くれた人は、日々それを眺めながら生活することになる。そのような環境下で
嫌味にならないような言葉を選ばねばならない。これは難題である。また今回
私は「専門は絵画ではなく哲学」と称して作品を出展しており、実際、思索を
踏まえて作品を作りたいと考えているが、ある程度まとまった思索を作品上で
展開するには、やはり纏まったテクスト分量がなければ難しい。会場で思索を
展開するというのにも無理がある。客に対応していたら集中できないし、そう
おいそれと都合よく革新的な着想が得られるものでもない。
上記のような問題点を踏まえ、やはり次回はパフォーマンススタイルではなく
完成した作品として出展すべきかと考えている。パフォーマンス性は失われる
が、その方が主題を深められるであろう。加えて、文字は書物に記されて書架
に収まれば、それなりに重みのある内容を表現しても大丈夫ではないか、との
考えから、作品と同時にブックレットを販売するスタイルを検討中である。
支持体は市販のB1サイズ木製パネル。普段の生活圏周辺をデジカメで撮影し
フォトショップで色彩を統一、明るさをやや強化して、全て淡い赤色の写真に
修正したものを普通紙にプリント。パネル上に並べて配置を確認しつつ裁断し
スプレー糊で貼っていった。思いのほか綺麗に仕上がった。初期状態の薔薇の
写真六点は専用光沢紙に印刷しスティック糊で強固に固定。あとは全て市販の
虫ピンで留めた。パネルが場所毎に固さが違い、虫ピンを刺すのに苦労した。
薔薇の写真。これは5日目。
展示風景。奥は仲間の作品と、「定めなき者#02」
右手、会場入口側からの様子。メモは虫ピンで留められ、互いに重なりあい、影を落とす。
拡大写真。
「砕けるイメージばかりがある」
「無意味だ。花が何の足しになるか
否、何にしても、何かになる気がしない
消失していく感覚しかない
……花のように乾いた感覚しかない」
左上端
左上拡大写真。「生命の本質は瞬間とタイミングにある」
右端拡大写真
「結末は終わる者にとっては常に円満だ
しかし世界の終末でもない限り
残る者にとって円満な結末など
滅多にあるものではない
ただ、より大きくなった欠損に
うめくばかりのことだ
(花は円満に終わる
私は新たな喪失を抱える)」