<欲望について>

執筆:2004年9月13日


欲望に囚われた人間は容易に操れる。欲しい物を鼻先にぶら下げてやれば、造作もなく食いついてくる道理である。魚釣りと似たようなものだ。
人間には二つの知恵がある。鋭く物事を感じ取る知恵と、じっくり物事を考える知恵である。操られたくなければ、感覚を研ぎ澄まし思考を練り込むことだ。逆に欲望に囚われると、この二つの知恵は抑制される。さかりの付いた鶏の体だ。
欲望、欲求、衝動、みな人間を捉え、頭の働きを鈍らせる。これらに囚われて動く人間は、次の行動が見えやすく、御しやすい。策を弄しようとして、その策が成功することに陶酔してしまう者は策士として失格である。己の策の成功を見ようと急ぐあまり、その欲求に囚われ、足下が見えなくなり、また策を弄していることが周囲に見え透き、けっきょく失敗するのである。
欲望、欲求、衝動に囚われた人間とは、縫い目の見える縫いぐるみのように興醒めである。要するにそれは、出来そこないのロボットか、ゾウリムシの類である。欲求という名のプログラムによってドライブされており、特定の物理的・化学的刺激に対し決められた反応を返しているに過ぎない。彼らは己の欲求を見て、相手を見ない。コミュニケーションが無いので、我々にとってこのような人々は、二人称の他者では有り得ない。良くて三人称の他者、最悪、現象か物の類である。人間の姿を持っていながら、人間ではない。これはまさに猿真似であり、人間に対する侮辱である。

人間とは、もっと神秘な他者であると信じたい。
その瞳の中に自分の姿が映し出されることで、魔法の如き力が惹起されるような。
それによって私の鼓動が波立ち、気恥ずかしさと誇らしさを感じるような。
向かい合い、響き会うような。

壊れかけの操り人形が、今日も街に溢れ出る。
街を歩く私も、そんな人形のひとつなのかも知れない。
人間とは、壊れかけうち捨てられる寸前の人形が見た、最後の夢であって……