執筆:2004年7月16日
聖書に次のような言葉が書かれている。「肉に信仰をおく者は蛆
の餌食と成り果て、霊に信仰をおく者は定まりなき肉体を組み伏せ、
死を超えて命を得る」だいたい言わんとすることは解る。しかし、
私はある時、ふと考えた。「霊よりも肉の方が確固たる存在者では
ないだろうか」と。
肉体の快楽より精神の陶冶を重視せよ、そいう説教には、敢えて
反対する気はない。私も精神性は重要だと思う。信仰心を持つ者は
死後に復活を遂げるという考えにもケチはつけない。それは麗しき
信仰の問題であって、無粋な論理などでどうこうするのは、お門違
いというものだ。
私が考えたのは、例えば人の死において、我々に現前する出来事
だ。人が死んだ時、彼の精神は我々の前から姿を消す。天に召され
たのか、端的に消滅したのか、残された者の心の中に脈々と生きて
いるか知らないが、ともかく我々と対峙する、肉体を持つ他者とし
てのその人はいなくなる。しかし肉体は残る。
殺人を犯し、それを隠蔽しようとした者は、この事をよく知って
いる。包丁を突き刺す。相手は死ぬ。簡単なことだ。しかし、それ
からが問題だ。死体がある。死体を処理せねばならない。しかし、
これは容易なことではない。人体は巨大だ。車に載せるだけで一苦
労だ。それを山奥まで運ぶ。土に埋める。しかし、そう簡単には腐
らない。腐って白骨化しても、骨まで跡形もなく消えるまでには、
さらに時間がかかる。いつ見つかるか解らぬ。
人の心変わりにおいても、その通りだ。人の心は定まらない。し
かし肉体としてのその人は、厳然とそこに在り続ける。それが裏切
られた者を苦しめる。
人の精神は、ふと存在の家から不在の家へと住み替えてしまう。
肉体だけが、こびりついた汚れのように、存在の世界にわだかまっ
ている。この頑迷な存在者に、我々は戸惑い、手を焼き、不気味に
思い、悪夢の中で脅かされる。存在は厳として在りながら、存在の
仕方を変えてしまった者達。消滅せざる亡者たち。