<簡潔至上主義、その後>

執筆:2004年5月22日


 私は簡潔至上主義者だと思う。私は絵から形を消し、具象を消し
ていく。余計なものは必要ないのだ。冗長は嫌いだ。もっも純粋な
結晶を抽出したい。

 しかし、どこかで虚しさを感じている。どこまで消していけばい
いのだろうか。どこまでもどこまでも消していけば、やがては画面
はまっ白になり、画面も消え、描く事自体が消滅するだろう。絵を
描かない画家。詩を書かない詩人。 どこかに消えずに残るものが
ある、という気がしない。いまは消えずに残っているものがあるが、
それが永遠に消えないなどとは、とても思えない。私の手の中にあ
るものは、愚者の黄金に過ぎない。いずれもっと消えていく。あの
正方形も、そこに引っかかったオブジェクトも。 いずれは創造す
ることが消え、私という存在も消えていくだろう。生きている私、
そんな卑小なものも消えていく。人生だと? 余りにも猥雑。過剰
なまでに冗長。冗長すぎる。笑うほどに冗長だ。80年とは、一体
どういうことか。真に美しいものは一瞬にして尽きるというのに。

 こんな事を言う私は、恐らく愛するということが足りないのだろ
う。何事も本当には愛していないのだと思う。冗長と感じるものを
削っていけば、タマネギの皮むき宜しく、全てが冗長の名のもとに
斬り捨てられていくだろう。色も言葉も、私と世界の全ても。 し
かし、分かっていても、どうも何かを愛するという事が出来ない。
未だに何かを見て、ああ、これの絵を描きたい、と思う気持ちが理
解できない。面白い形も、美しい風景も、ただそれだけのことだ。
私はあまりに無駄に生き、あまりに無意味に感動し、言わなくて良
いことをべらべらと喋ってきたのではないか。冗長に、これ以上な
いほど冗長に。存在するという事自体が冗長ではないのか。そんな
冗長さをはね返す試みは、いままでのところ、すべて挫折してきた。
苦痛を紛らわせ、答えを先延ばしにするために、私は日々ものを喰っ
て、寝床に逃げ込んでいる。

 何のために絵を描いているのか、詩を書いているのか、よく分からない。
 生きるということも、いまいち分かっているわけではないのだから、当たり前だ。
 酔生夢死という言葉は、私のためにあるのではないかとも思う。

 私の簡潔至上主義とは、つまり、悪夢なのか。
 それとも簡潔至上主義者の私が、生きている、ということが悪夢なのか。
 酔生夢死という言葉は、まさに私のためにあるように思う。
 近ごろ、眠気がひどい。