執筆:2004年5月22日
詩を書いていると、時に苛立ちを感じる事がある。全てを滅茶苦
茶にしてやりたいほどの絶望を感じて、詩を書いて、さて現実を振
り返ると、何も滅茶苦茶になどなっていない。私は詩に逃避して、
カタルシスを得て、現実に戻ってくる。現実は何も変わっていない。
ある種の自慰行為。 恐らくはそれで良いのだろう。現実が滅茶苦
茶になってくれては困る。詩が私の現実世界を守る安全弁だ。詩に
感謝して、滅茶苦茶になっていない世界を前に安堵の溜息をもらす。
それで良いはずだ。 しかし、苛立ちを感じる。
全てを滅茶苦茶にしてしまいたい。詩など書く暇があるなら、現
実を滅茶苦茶にしてしまいたい。何故それが出来ないのだろう。適
度にかしこまって、愛想良く人と付き合って、仲良くできていると
はどうしたことなのか。私の激しい魂はどこにあるのか。
近頃、ボクシングに憧れを抱く自分がいる。沢木耕太郎の初期作
品に影響を受けてのことだが、ボクシングというスポーツに強い憧
れを感じる。ボクシングで敗れ去ることが、しばしば現実における、
全人生の敗北に繋がるところが魅力だ。他の格闘技と比べて、あの
真摯さは一体何か。ある種の武道の如く、自分の体を傷めずに相手
を圧倒するのではなく、命を懸けて対等な相手と渡り合う。満身創
痍になりながら、なおも前に進み続ける。そして、やがてパンチド
ランカーとなる、あのスポーツ。 この野郎、と叫びながら、負け
ると分かった勝負に突き進むのがいい。そして滅多打ちにされてボ
ロ雑巾のようにリングに沈むのがいい。そこまで戦わせてくれるの
なら。そこまで戦えるのならば。
これも自慰行為のひとつかも知れない。実際のところは、ボクシ
ングなど今さらできたものではない。格闘技全般が苦手だ。間合い
が悪い。タイミングが掴めない。格闘のセンスがない。実際にでき
ないものに幻想を抱いて、どうなるのか。
詩を書いている私は、どこかで虚しいものを感じている。現実と
違う場所で私は何をしているのか。いつでも私は突き進むことを躊
躇っている。巧妙に破綻を回避している。
ああ、いっそ無惨に亡びられたなら。