ジャクソンは夢を見た。
暗闇の中に、ジャクソンは立っていた。遠くの空に暗褐色の雲が
淀んでいる。黒ずんだ地面。風が悪意をこめて、何かを滅茶苦茶に
してやろうと企むように、ひゅうひゅうと吹く。すぐ目の前に崖が
あって、ジャクソンは目眩がしそうになる。数歩先に、ローブを着
てフードをかぶった男が立っている。男はジャクソンに崖の下を見
ろという。ジャクソンは恐る恐る崖に近づく。足がすくんで、腰が
引けて、地面に手を突いて、四つん這いになる。男は傲然と直立の
ままジャクソンを見下ろし、崖の下を指さしている。ジャクソンは
見たくなかった。見てはいけないものがあると思った。それでもす
くんだ体は崖に近づき、そして手が崖のふちをつかみ、ぶるぶる震
えながらジャクソンは崖を覗き込んだ。
漆黒の、闇。暗闇。の、中に、ところどころ、ぼうっと光ってい
て、何かが、蠢いて、いるのが見えた。白い、細い、骨。骨が、ゆ
らゆらと、闇の中に、夢のように、揺らめいて、骨が、白骨が、蠢
いていて、頭蓋骨が、何かを、探して、見つからなくて、うろたえ
て、いるように、ゆらゆらと、あちらを見たりこちらを見たり、手
が虚しく宙をかき、闇の中で、何体もの、白骨死体が、頭を抱え、
四つん這いになり、顔を両手にうずめ、宙に手を泳がせ、ありとあ
らゆる痛みと苦しみと悲しみと絶望の所作をとって、闇の中で、闇
の中で、闇の中で蠢いて揺らめいて、そして、
吠えている。ああ腹の底にしみいるような、かぼそくよるべない、情けない声だ。
ジャクソンはびくりと肩を震わせ、男の方を見た。男が何か言っ
た。ジャクソンが蒼白になりながら男の顔をじっと見ていると、男
はもう一度口を開いた。「あれは負け犬どもだ」
男の顔を、ジャクソンはじっと見ている。ジャクソンの目は恐れ
おののいて、血走っている。脂汗が流れ落ちる。男は下目使いに
ジャクソンの顔を見返している。口の周りに短い髭を生やしている。
頬はこけている。目は力を帯びて爛々と輝いている。ジャクソンは
ますます恐ろしくなる。
男はさらに言う。「あの犬の骨をよく見ろ。声が聞こえるだろう。
腹を空かせて吠えているのだ。何を喰っても素通りだからな。どん
なに素晴らしいものを口にしようが、あの飢えは癒しようがない。
水も欲している。喉が渇いたと言ってな。実際、奴らはこれ以上な
いと言うほど乾ききっている。それに空気だ。空気の良いところで
病を癒したいと言っている。しかし無駄なことだ。奴らが何を喰っ
ても飢えを満たせない体になったのは、水と空気が時の流れの中で
奴らの肉を腐らせ、蝕んだせいだ。水も空気も時間も、奴らを育み
はしない。ますます奪い取るだけだ。それで奴らは右往左往してい
る。探しているのだ。飢えを満たすものを。病を癒すものを。ふん、
無駄なことだ」ジャクソンは痩せこけた男の顔をじっと見ている。
目が血走り、皮膚に脂汗が浮き、呆けのように口は開き、かすかに
震え、何も言えない。「奴らを見ろ。奴らは負け犬だ。よく見ろ!」
男に怒鳴られ、ジャクソンはまた、すくむ首を巡らせた。その時、
ちょうど骨達が、一斉に、こちらを、見たのだ。
犬達がこちらを見た。犬達の吠え声が一瞬とまる。風と淀んだ雲
と黒ずんだ地面を背景に、ジャクソンと犬達が、じっと対峙した!
ジャクソンは谷に吸い込まれそうな気がした。そして顔を両手で
覆って絞り出すようなうめき声を上げて地面に座り込んだ。犬達は
前よりまして悲しい、いっそ凄惨な声で吠えだした。
おおぉ、おおおぉと、吠えだした。
不意にジャクソンはびくりと肩を震わせた。すぐ背後に息づかい
が聞こえた気がしたのだ。座ったまま弾かれたように振り返ると、
ジャクソンの目の前に、10メートルほど先に、いたのだ。白い、
細い骨。頭蓋骨。犬が、一匹、ジャクソンの方をじっと見ていたのだ。
(腹を空かせて吠えているのだ。何を喰っても素通りだからな)
痩せた男の声が聞こえた気がして、ジャクソンは振り返る。しかし、
男がいない。どこだ? ジャクソンは慌てて見まわす。いない。あ
の男がどこにもいない。どこだ? どこにもいない。見渡す限り崖
と荒野。どこにいった? どこにいった? 腹を空かせて吠えてい
るのだ。何を喰っても素通りだからな。腹が減っているのだ。何か
喰うものを探している。犬がこちらを見ている。息づかいが聞こえ
る。犬がいる。ジャクソンがいる。犬が近づいてくる。ジャクソン
は慌てて立ち上がる。よろよろと、ジャクソンが逃げ、ふらふらと、
犬が追いかける。
薄暗い空を背景に、ジャクソンが逃げ、犬が追いかける。何と情
けない姿か。ジャクソンはふらつく足を叱咤して逃げる。あちらに
よろよろ、こちらによろよろ、頭を抱え、悲鳴を上げ、慌てれば慌
てるほど足はもつれ、わああ、わああと意味もなく声をあげ、右に
ふらふら、左にふらふら。それを追いかける犬がまた、頭をふりふ
り、喘いで、喘いで、喘いで、あれほど足もとのおぼつかないジャ
クソンに、一向に追いつけないではないか! 筋肉も目玉もなくて、
どうしてジャクソンを見つけ、追いかけることができようか。骨し
かないのだ。時間の中で、もう肉はすっかり空気と水についばまれ、
骨だけなのだから。骨しか残っていないのだから! ジャクソンが
わああと叫び、血走った黄色い目玉を剥いて、くしゃくしゃの頭を
振り乱し、埃だらけの衣服も乱し、手を前に泳がせ、逃げて、逃げ
て、その後を頭を抱え、足をよろめかせ、意味もなく下顎骨をカク
カクさせて、真っ暗な眼窩で空を仰いではすぐに俯いて、追いかけ
つつ、追いかけつつ、ちっとも追いつかないのを必死に追いかけ、
追いかけ、追いかけつつ、
吠えている。腹の底まで染み通るような、情けなく泣きたいような
死にたいような気が狂いそうな声だ!
ジャクソンは助けて、助けてと叫んだ。すぐ後を白い骨が追いか
けてくる。ゆらゆらと。ゆらゆらゆらゆら、ゆらゆらゆらゆらゆら
ゆらゆらゆら、ゆらゆらと! 助けて、喰い殺される、追いつかれ
たら喰い殺される、食べられたくない、助けて、助けて! しかし
ジャクソンが走っているのは砂漠のど真ん中で、助けてくれる人ど
ころか、草一本、石ころひとつ見あたらないのだ。ただ地平線上に
太陽が見える。いつもいつも空から見下ろしているヤツ! 黄土色
と黄色の炎の舌を四方八方にべろべろ伸ばした真ん中で、バタ臭い
わざとらしい笑いを浮かべて、ジャクソンがどんなに助けを求めて
も、知らん顔なのだ! ご機嫌よろしゅうとばかり笑って眺めてい
る! 見るな! 見るな! ジャクソンは頭を抱えて走るが、太陽
はちっとも消えないし近づいても来ないのだ。太陽に顔を背けて逃
げようとしても、いつのまにか目の前で笑っている。見るな!
ジャクソンは絶望した。誰も助けてくれないのだ。助けてくれる
人はおろか、草一本、石ころ一つない! 太陽はジャクソンを焼く
ばかり、やがて体は燃え尽きて、精神も燃え尽きて、魂も燃え尽き
て、暗黒の中に消え去るしかない! それしかない! ジャクソン
の周りは真っ暗で、真っ暗な空のど真ん中にうそ臭い太陽が歯車の
ように炎の舌を回して見下ろしている。鉄の太陽! ネジ止めした
炎の舌をぐるぐる回している! ジャクソンの周りは真っ暗で、
真っ暗な空のど真ん中にうそ臭い太陽が鎮座しており、周囲を見ま
わしても草も石ころもない。もうだめだ、もうだめだ、もうだめだ──
ジャクソンは立ち止まり、振り返った。犬も疲れ果ててうずくまっ
ていた。みすぼらしい、情けない姿。病み、疲れ、傷つき、飢え痩
せ細り乾き歪みねじ曲がり、恐れ、悲しみ、苦悩に耐えて耐えきれ
ず、震え、泣き、虚しく吠えている。おおお、おおおおと。
そしてジャクソンは気付いた
犬の姿は自分だと
漆黒の空に燃える似非太陽の光に照らされ、
暗い世界に落ちた白い影。
傷つき、病み、飢え、疲れ、泣き叫ぶ声も微かにしか聞こえない、情けない負け犬の姿
しっぽを巻いて逃げ出してみたものの、大気と水がその肉を喰いちぎり続けた
そして時間
幸福が紡がれるはずだった、その時間──
ジャクソンは時間の中で空気と水に食いちぎられ、
腕や足の筋肉を引きちぎられ、頭蓋骨を食い破られ、
脳を酸素で焼かれ、内臓を寒風に吹き抜かれ、
悲しい、情けない、負け犬!
ジャクソンは犬はふらつく足を折り白い手を震わせ脂汗の流れる額で黒い眼窩で、
跪き、空を仰ぎ、手を天にさしのべ、その手で顔を覆い、
何も考えられず、叫んだ