<どうか真の微笑みを>

執筆開始:2003年11月26日
大改訂・加筆完成:2004年4月4日


こんな手紙を差し上げることを、まずはお詫びしなければなりませ
ん。本当に、どうしてこんなところばかりお見せすることになるの
か、お恥ずかしく申し訳なくて何と言ってよいのか、途方に暮れる
ばかりです。
この手紙を、下書きを書いてから、もう何日間も見直し、推敲を重
ねています。そして、そうまでして、今、三つのことを認めざるを
得ないのに気づきます。第一に、こんなに推敲しても意味がないこ
と。自分は意味もない微修正を繰り返しているだけだということ。
第二に、こんな手紙は出すべきでないということ。こんな手紙を出
すことは、貴方にご心配をおかけし、私の情けない姿を晒すばかり
だということ。そして第三に、それでも私はこの手紙を差し上げず
にはいられないということ。貴方にご理解いただくことが、どうし
ても必要なのです。いえ、別にもう何等の関係も無いはずで、貴方
に知っていただくことが必要だなどと言うのは、私の身勝手だとわ
かっているのです。しかし我慢できない。どうしてもこの手紙を出
さずにはいられないのです。陳腐な表現ですが、この手紙のために
何枚の便箋を無駄にしたか分からない。何度も書きかけては握りつ
ぶしたのです。こんな馬鹿げた手紙を書くのはやめろと。しかし書
かずにはおれない。私はいったい何をしているのでしょうか。すべ
きでないと分かったことがやめられないなんて。私の心は胴にひび
入ったバイオリンにでもなってしまったのでしょうか。いくら正し
く弓を当てようとしても、調子の外れた妙な音がするばかりなので
す。こんな、お恥ずかしい。貴方のお耳にいれたくはありません。
それなのに、どうにもこんな音ばかりが出てしまうのです。

貴方に祝福していただいたのに、どうしてあんな事になってしまっ
たのでしょうね。

もう貴方のことを愛しているなどとは申しません。それは、今でも
貴方を尊敬する気持ちには変わりありません。しかし、どうも、私
は貴方には似つかわしくありませんでしたね。今になって、なんだ
かおかしく思うのです。貴方に対して、私は到底、似つかわしくな
かった。笑ってしまいます。貴方の気遣いの深さ、思いやりの行き
届いたこと、また、この上も無く美しい言葉。何度あなたのお言葉
に救われたことでしょう。あなたの口にする言葉は、実に私の心を
照らし、救い、癒すものでした。何度あなたのお言葉に涙したこと
でしょう。私の精神を北欧の民話にたとえて下さった、あのお言葉。
覚えておいででしょうか。あの言葉は、どうも私には強すぎました。
その暖かみに触れて、私は胸がきりきりと痛むのを覚えたのです。
冷凍になった肉を解凍すると、氷の結晶に壊された組織が融解して、
血や組織液が流れ出してしまいますね。私の心臓も、ちょうどあん
な感じになった気がします。不用意に暖かいものに触れて、解けて、
血まみれになってしまった。そして痛みの中で思ったものです。あ
なたへの御恩は、もうどうしたって返せはしないと。そして同時に
あなたと私の関係は決して対等なものではないと思い知らされたの
です。あなたが、いつでも、私より上位にいた。対等な関係が築け
るなどと思ったのは、私の思い上がりだった。

ああ、どうしてあんな事になってしまったのでしょうね。あなたに
祝福していただいたはずだったのに。

書いていて、本当に嫌になってしまいます。なぜこんな泣き言ばか
りをくどくどと書き連ねるのでしょうか。私の心は本当に胴にひび
入ったバイオリンのようになってしまったのでしょうか。いえ、私
も懲りない人間ですね。また思い上がって。私がバイオリンなんて
素敵なもので、あるはずがない。

貴方へはもう手紙は書きません。これが最後の手紙です。書けば必
ず泣き言になってしまう。そんなことを言いたいのではないのです。
貴方と幸せなほほ笑みを交わしたいのです。友人として、自信に満
ちた幸福な私を見せたいのです。あなたの幸福を心から祝福し、過
去のことは過去のこととして、笑い飛ばしたいのです。

ああ、なんだか疲れてしまいました。まさかあんな裏切りがあると
は思わなかった。

こんなことを申し上げることは、本当に本当に恥でしかないのです
が、しかしどうも、隠しておくことはできないようなのです。先日
久々にお会いした時、私は笑っていたことでしょう。しかし幸福で
などあるはずないのです。私の心はすっかり乾ききり、歪み、ひび
が入ってしまった。いくら正しく弓を当てようが、調子っぱずれの
悲しい音ばかり立てるのです。

私の心は、老いさらばえた旅楽士の弾く
胴にひび入ったバイオリンですか
時間は刻々と流れてゆくのに、
掠れた悲しい音ばかりたてますよ。

哀れんでくれと、いうのではないのです。それではあまりに情けな
いですからね。別に無理にはしゃいで見せようとは思いませんが、
今日この手紙を書いている日の天気のように、静かに思いを抱き締
めるくらいのダンディズムは持ち合わせているはずなのです。この
ところ雨が多いですね。洗濯が乾かなくてお困りでしょうか。しと
しとと降る雨は、実に冷たく実に優しい。木々が濡れて落ち葉も濡
れて、地底の死者にまで雨露は染み渡る。すべては移りゆく定めに
あるのに、私だけ過ぎたことに拘っていて良いはずがない。

しかし、どうしてでしょう駄目なのです
それならどうしてこんな手紙を書くのか
どうして尊敬するあなたのお目に
こんな情けない自分の姿を晒してしまうのか

天使のような貴方が
遠くから私を見ている様が目に浮かびます
憐れむような貴方の視線が
私には辛くて辛くて
どうにかして情けない姿を
隠そうとするけれど
私はけっきょく雑踏に踏みにじられて
ぺちゃんこになるのです
所詮私は心弱で
人々の中でもみくちゃにされて
半狂乱に正気も失い
泣き悶え跪き
頭を抱え崩れ落ちて行くのです
無様な残骸と化して
この世の片隅にいつまでもうずくまるのです

笑ってください、どうか貴方は笑ってください
本当の微笑みを、どうか憐れみじゃなくて
憐れまないでください、こうして私が
雑踏に踏みつけられて死にかけながら
必死にお願いしているのですから
もう他には何も望まないんですから
どうか貴方の屈託ない笑いを見せてくださいよ
血まみれで泥まみれの私を見つめて
憐れまず泣かずに笑ってくださいよ
ドブの底から天に向かって
千切れた手をさしのべる私のために
血まみれで泥まみれの私を見つめて
憐れまず泣かずに楽しげに笑ってくださいよ
それだけです望むものは
どうかこの望みだけ叶えてくださいよ
手の届かない遠い空から
お日様の光のように微笑みをくださいよ
どうか真実の微笑みをくださいよ
きらめく真実の微笑みをくださいよ