<夏の記憶>

執筆:不明
加筆完成:2004年3月4日


公園は湿度の高い極東の夏の日差しに照らされていたはずだが、不
思議と暑かった記憶はない。ただ草の葉が風に吹かれて翻り、その
銀色の葉裏に日の光を踊らせていたのを覚えているばかりだ。

ああ、あの日のことはどんな細部まででも思い出せる。太陽の輝く
空がどんなに鮮やかな青色だったか、浮かぶ雲のおもしろい形のひ
とつひとつ、その雲の縁の、綿のような繊細なメッシュ、ひらひら
と飛んでいた真っ白な蝶、ベンチのペンキの剥げかかった表面、そ
の表面のささくれた手触り。私が二人分の座面を払い、私達は腰を
下ろした。風に吹かれて木々のこずえが揺れ、その影が私達の回り
で揺らめくのを見て、私は泣きたいほどの感動を覚えたものだ。

そう、あの日のことはどんな細部まででも思い出せる。私の肩にか
かる君の頭の重み、君のなだらかな肩、君の健康的な黒髪の中に顔
をうずめたとき、私の鼻孔を満たした甘い香りのこと。あの日のこ
とはどんな細部まででも思い出せる。君の囁き、いつもは私の鼓膜
をピアノのハンマーのように陽気に叩く君の声が、あの日はチェン
バロの弦をつま弾くように、優しく甘く、残響を残して私の内耳を
満たしていた。君はその瞬間に私の傍らにいたのに、私はひどくセ
ンチメンタルな気持ちで、むやみに過去のことを思い出したりして
いたものだ。あの日のことは何でも、どんな細部まででも思い出せ
る。私は繰り返し、繰り返し君に囁き続けた。同じ言葉を何度も何
度も繰り返していた。日の光が変わる事なく大地を照らし続けるよ
うに、私達が輝き続けることを祈って、変わらぬ言葉を君に囁き続
けた。そのひと言ひと言が君の心を幸福で満たすように。しかしど
んなに繰り返しても、充分という気がしなかった。そのひと言ひと
言に、君ははにかんだり、肩を震わせたりしていたのだから。あの
日のことは思い出せる。どんな細部まででも思い出せる。君の吐息
が私の耳にかかる感じ。君の腕や体の、一つ一つの体の部分の重み。
君の確かな存在。私の確かな存在。木々のこずえからこぼれ落ちる
日ざし。ときどき吹く風。しかし、さあ、何故だろう。

湿度の高い極東の夏にも拘わらず、暑さの記憶だけが欠け落ちてい
るのだ。なぜか分からないのだが、暑かったはずの夏の記憶だけが
欠け落ちている。ああ、あの日のことは何でも思い出せる。しかし
夏の暑さの記憶だけが欠け落ちている。あの日のことはどんな細部
まででも思い出せる。あの日思い出したことを思い出すこともでき
る。しかし暑かったはずの夏の記憶だけはない。

そして、そのためにひどく現実感がないのだ。

あの日のことは何でも思い出せる。君の囁いた声のトーン、少しで
も多く触れようと、全身をよじって押し付けられた君の体の量感、
繰り返し繰り返し囁いた言葉にはにかみ俯いた君の額。その額にそっ
と口づけしたとき、口に含んだ髪の幾筋か。あの日のことはどんな
細部まででも思い出せる。ただ夏の暑さの記憶だけがなく、お陰で
ひどく現実感がない。

季節は何の意味も無く私のかたわらを通り過ぎる。夏の暑さに文句
も言わず、冬の寒風に何故かニヤニヤしている。秋の落葉はなんだ
か馬鹿馬鹿しいものを見せられている気がするし、春には花々の乱
痴気騒ぎがうるさくて顔をしかめる。へらへらと笑いながら、その
実たいして面白いことがあるわけでもない。

ああ、なぜ君はあの時歌ってくれなかったのか。私が君の声を聞き
たくて、どうか詩集を朗読してほしいと懇願したのに、きみははに
かみ笑うばかりで、ついに歌わずごまかしてしまった。ああ、なぜ
君は私にいつまでも夢を見させてくれなかったのか。私は君のなか
にもう一度永遠を見ようとしていたのに。ああ、なぜ君はあの時歌っ
てくれなかったのか。なぜ歌ってくれなかったのか。君の声が君の
歌が、君の優しい唇が私の心を囁くのを。

風に揺れる木の葉の、やや深まって来た緑色を見て、私は再び夏が
訪れるのを知る。木の葉の表面に反射して踊る光の、春とは違う鋭
さ、明るさに、私は近づく夏を夢見る。どうか夏の日差しよ。私の
背中を焼き焦がしてはくれまいか。夏の纏わり付くような湿気の中
で、私はもう一度走りたい。夏の日差しよ夏の風よ、どうか私をも
う一度。ああ夏の粘着する空気の中で、もう一度汗まみれになれる
なら。夏の日差しよ夏の風よ、どうかどうかもう一度だけ。夏の時
雨に心まで濡れたなら。夏の日差しよ夏の風よ、もう一度だけもう
一度だけ、そうどうかもう一度だけ、

心ゆくまで、信じさせては、くれないか。
永遠を、魔法を、夢を。