<人捜し>

制作日:2003年10月9日


本作は大学学科の学生名簿用に制作されたデザイン・レイアウトに含まれていた詩である。
「もっと明るく楽しいものが相応しい」という理由で廃案とされた。確かに、深刻過ぎる。

名簿とは、その中から求める人を捜し出し、連絡先を確認し、連絡するためのものである。
そこで「求める誰かを捜す」「他者とつながりあう」という事をテーマに全体をまとめた。
表紙には一人の女性が何かを問うたのに対し、男性が「人捜し……だな」と応えている絵を
中心に、小さい文字で情報をまとめた。その表紙をめくると現れるのが以下の<表紙側>と
タイトルを振った詩である。
裏表紙には「○○学科学部生名簿」と簡略に記し、学部のシンボルマークを配した。それを
めくると現れるのが<裏表紙側>とタイトルを振った詩である。


<表紙側>
迷子の小鳥を眺めていると
貴方のことを思い出します。
人捜しなんて言ったけれど
その名も教えてくれなかったのはなぜ?

大雨の中を歩き回って
ずぶ濡れになって笑っている。
こんな天気に外を歩いても
誰もいやしないのに……


<裏表紙側>
こう見えても
いくつものドアを叩いてきた。
論理的必然という明日
明けない夜がないように
暮れない日もまた無いという事。

それでも春は来ると
繰り言のように呟きつつ
私はいかにも道化だ
手の震えが止まらない。

嘲笑するのもそろそろ疲れた
鳴らない電話は気にしない
しかし何も期待しないのは
些か傲慢すぎるだろうか

そうする以外
祈りの仕方も知らないので
もう一度、扉を叩こう。
そこが私のゴルゴダの丘だ。

そうする以外
祈りの仕方も知らないので
何度でも扉を叩こう。
それが私の祈る時だ。




表紙が主題「人捜し」を呈示する。その主題を受けて、詩<表紙側>がテーマを展開する。
男は人を捜しているが、名前の分かった特定の人を捜すのではない。彼が求める「誰か」を
捜しているのである。そんな彼は大雨をものともせずに歩き回る見た目のタフさとは裏腹に
迷子の小鳥のようである。「求める誰か」どころか誰もいないはずの大雨の野外を彷徨し、
ずぶ濡れになってもヘラヘラ笑う様は、彼の心の惑いを隠す隠れ蓑である。彼は頭を抱える
代わりに雨に濡れに行き、泣く代わりに笑うのである。
そんな彼の思いが詩<裏表紙側>に表現される。永遠と絶対はほとんど論理的必然に等しい
確実さで否定され、この永遠と絶対の否定が「明けない夜など無い」という言説を保証し、
人に希望を与える。しかし同時に「暮れない日もまた無い」という言説も保証されるのだ。
彼は既にいくつものドアを叩き、つまりいくつもの出会いを経て、もはや新しいドアを叩く
前から、その結果を知っている。彼にとって「明日」は未知のものではなく、論理的必然に
似た既知のものなのである。そのような明日を迎えることに意味があるのか、否か。
「それでも春は来る」という言説は「明けない夜など無い」と同義である。この言葉を呟く
彼の有様は酔っぱらいが繰り言を述べるかのようである。この言葉を、誰も、彼自身さえ、
真面目に聞きはしない。ただの強がりに過ぎないのだという事を、彼自身もまた、痛いほど
分かっている。春は来る。そして冬が来るのだ。全ては分かりきったことである。
真面目に考えすぎては気疲れするし、期待する電話がかかってこない事など気にしていたら
何も手に付かない。そうして彼は何事も真面目に取り合わず、嘲笑を事とするようになる。
出会った他者から、自分が望むような接触があることも、もはや期待していない。やがて、
嘲笑する自分をも嫌うようになる。沈黙する。

しかし、これも思えばずいぶん後ろ向きな態度だ。

彼は絶望を抱えたまま、もう一度、扉を叩く。結果は分かっているにも関わらず、である。
人間が原罪の故に免れ得ない苦しみを抱えているのだとすれば、免れ得ない苦しみ、既知の
絶望に抗って、もう一度、扉を叩くことは、贖いのための行為に他ならない。絶望的結果が
約束されている以上、これは苦行である。彼は自分が傷つく事を承知で、原罪を贖うため、
その場所に向かう。その場所は彼にとってのゴルゴダの丘(キリストが十字架に架けられた
丘)である。そうする以外に、世界に対する敬虔で誠実な態度の示し方(それは祈りに象徴
される)は無いので、彼は絶望を抱えたまま、震える手で、何度でも扉を叩くのである。