いくつかの詩や物語を書く中で、リズムや韻、物語(ストーリー)
や細部の設定といった物について、自分の考えがまとまってきたと
感じ、それをここに記す。
詩において私はいつの頃からか韻やリズムという物を排除しよう
とするようになった。脚韻と頭韻、リズミカルな言葉の反復、そん
な物は憎悪の対象ですらある。
私にとって詩を書く際には、常に主題となる想い、感動というも
のがある。これらの主題をできるだけ純度の高い結晶として取り出
すことが、私の詩を書く際の目標である。鑑賞者は、この主題を直
接的に感得できることが望ましい。でき得れば個々の言葉の意味を
跳び越えて、私の精神の波動を伝えられたらと思う。しかし伝達の
媒体がなければ伝達もできない道理だから、言葉を紡ぎ、その意味
を通じて何とか伝えたい物を伝えようとする。
この目標にとって、技巧は余計である。それには幾つかの理由が
あるが、まず第一に、技巧と内容に注意が分散して欲しくない。技
巧のすばらしさなどに感動して欲しくはないのだ。形式など、でき
得れば脱ぎ捨ててしまいたいのだ。また第二に、私は華やかで煌び
やかで滑らかな美しさなど求めてはいない。「技巧の美しさ」など
というものは、私の求める物ではないのだ。花なら、咲き誇る大輪
を見せて喜ばせるより、私は枯れ果てた最後のひと枝を突きつけて
考えさせたい。気取った韻を踏んでみたり、リズムでサラサラと詩
の章句を流したりはしたくない。鑑賞者が少しでも心地よいリズム
に乗り始めたら、そこで思い切りリズムを崩して、鑑賞者をつまず
かせなければならない。鑑賞者が心地よいリズムに体を揺すってい
る間に、私が必死の思いで選んだ章句を読み流すなどという事は、
私は許さない。そこで是非とも立ち止まらせなければならない。そ
して第三に、制作時の都合もある。私は詩を書くとき、焦っている
のだ。早くこの思いを形にしなければ、想いが散逸してしまうかも
知れない。そうでなくても、一刻も早く文字化して、区切りをつけ
たい。早く詩に昇華して固定しなければ、自己の精神を蝕む劇薬と
もなりうる激しい想いを、詩を書く者はしばしば抱えているのだか
ら。読者としての自分が、作者としての自分に、早く詩を書いて見
せてくれとせがんでいる事情もある。私は自分の読みたい詩を書い
ているのだ。そういった諸々の事情から、早く詩を書かなければと
焦る者にとって、うまく韻を踏む言葉を探したり、リズミカルに響
く言葉を求めたりする時間が、如何に苛立たしく待ちかねるものか、
考えてもみて欲しい。そんなことに気を遣っている暇はないのだ。
第四に、私には中庸と空への願望がある。常に中庸を目指し、空
(くう)の境地に憧れる者にとって、あらゆる状態は脱出すべき牢
獄である。あらゆる状態がもつ偏向から、常に逃れ出続けなければ
ならない。逃れ出続けることからも逃れ出なければならない。まし
てやリズムや韻といった形式から逃れ出ることは大前提である。固
まった形式の固さから逃れ、美しい形式の美しさから逃れ、より中
庸へ、より空へと接近していきたい。些末な感動から逃れ、些末な
技巧から逃れ、より本質的な感得へと至りたい。やたら技巧を追い
求めた作品など、土台、無粋かつ嫌味ではないか。
そんなわけで私は韻やリズムを必要最小限に留めようとする。書
いている詩が必要以上にリズミカルになると、私は不快になり、あ
わててそれを崩しにかかる。
小説においてもリズムや韻は存在し、私はそれを破壊するが、小
説にはそれとは別に、物語(ストーリー)と細部の設定というもの
がある。これらも、私にとっては冗長・無粋な代物である。
小説を書く上でも、私は常に主題を持っている。その主題が1つ
とは限らないし、明確に認識されているとも限らないが、それでも
厳然として存在する。その主題に対して、ストーリーとは何か。入
れ物であり形式であり、完全に排除はできないが、邪魔者である。
でき得るならストーリーの展開に気を散らされることなく、個々の
登場人物に注意を分散させることなく、主題のみを伝えたい。ストー
リー展開のために字数を費やして、緊張の切れた箇所が生じてしま
うくらいなら、ストーリーなど無視して短編作品の中に最大の集約
度で主題を凝縮して叩き付けるべきである。ストーリーは最小であ
るべきだし、登場人物は数が少なく、厚みがない陰のような存在で
あるべきだ。魅力的な登場人物など必要ない。現実味がある必要も
一切無い。登場人物は主題を伝えるために奉仕する部品に過ぎない。
人物である必要すらない。
小説世界と日常現実世界の1つの大きな差異は、日常の現実世界
では常に前提知識はある程度与えられているが、小説を読み始める
時点では、読者は何らの前提知識も与えられていないという事だ。
これから与えられなければならない。設定の説明が必要となる。し
かし、説明が多すぎると冗長になる。そこで互いに知らない人物を
登場させて、会話の中で状況説明を施したり、ストーリーを進めな
がら、少しずつ設定を小出しにしたり、小説家は様々な工夫をする。
しかし、そもそもそんな世話の焼ける設定など使わずに主題を伝え
られれば、私にとっては充分なのである。むしろそれが望ましい。
私は小説を書く際にも、焦っているのだから。設定を検討して豊か
な作品世界を育てる必要など無い。想いが膨れあがり、形を与えら
れて固定されることを望んだとき、それが小説を書くべき時であり、
その時が訪れたら、もはや一刻の猶予もない。新鮮で脈打っている
想いを叩き付けて、一夜にして書き上げられる長さ。それが私の小
説の適切な長さの、ひとつの目安である。
もっとも、近ごろでは、いま少し持続的なものを小説の主題とし
ようとも思っている。そのために慎重に不要物、夾雑物を取りのけ、
主題の純度を高め、よりよく主題を表現する象徴を探している。で
は設定にも気を配っているかと言えば、そんなことはぜんぜん無い。
設定はあくまで、じっくり排除すべきもののひとつである。それは
ストーリーを排除する事と何ら変わらない。設定に注意が向かぬよ
う、必要最低限に抑制し、冗長・散漫な部分ができぬよう、字数を
できるだけ削ぎ落とす。一切の設定から離れて小説が抽象の中に漂
い出るとき、それが私の小説のひとつの目標点となろう。どこでも
ない/どこでもある場所で、誰でもない/誰でもある者が、未だか
つて存在せず未来永劫存在しない時間/遍在する時間の中で、言葉
ならぬ言葉で行為ならざる行為で、何事かを表現したとき、私の小
説はひとつの完成を見るだろう。
まだ理想には程遠いが、その一点を目指して、いま少し創作活動
に励んでいきたいと思う。