<手紙に寄せて>

制作日:2003年7月19日


貴方の手紙が、届きました。
日差しの優しい、春の終わりに。
久しぶりですね。お元気そうで、何よりです。
懐かしい貴方の筆跡。くせのない整った文字が
おひさまの匂いや、風の肌触りを教えてくれるようです。
誰でしたか。美しい言葉と文才は
美しい魂を構成する
条件のひとつだと、言ったのは。

あれからだいぶ、経ちましたね。
冷めてしまった、モカとアメリカン
三枚のCD。ジャズとクラシック
嵐と戦う、船乗りの小説
笑いながら呟く。ええ、いいんです。
明るい日差し。青すぎる空。
ひとつも雲が無いなんて、
あまりに寄る辺ないような。
笑って、笑って、笑ってください。
鼻をかすめる、フルーツの香り。
いつも貴方が、つけてた香水。

あれからだいぶ、経ちましたね。
船乗り達は、星の無い空に、
夜々祈りを捧げます。
どこへ流れゆくとも知れず、
どこまで行っても、永遠の夜。
死にたくないから、祈るのですね。
どうなってしまうか、自分でもわからなかった。
自分の位置がわからない。
航路を決めることもできない。
心を蝕む狂気が恐くて、
静かに、静かに、夜々の間、
いくつもの祈りを捧げました。
死にたくないから、祈るのですね。
必死に祈りを捧げました。

あれからだいぶ、経ちましたね。
私の周囲も変わりました。
またあのカフェにも通っていますし、
中也以外の詩も読んでいます。
先日、花を買いました。
白とピンクのバラの花束。
優しい色を見つめるうちに、
ところが、一体何故なのでしょう、
おもわず涙がこぼれたのです。

私の心は、老いさらばえた旅楽師の弾く、
胴にひび入ったバイオリンですか。
時間はいつでも流れてゆくのに、
掠れた悲しい音ばかりたてます。

そう、あれからだいぶ経ちました。
貴方の手紙が、届きました。
冷めてしまった、モカとアメリカン。
貴方との日々は、弦の切れたバイオリン。
もう冬も遠い一日、
貴方の手紙が届きました。
弦の切れたバイオリンでは、
何かを弾けるはずもなかった。
それでも弓をあててみました。
せめて、せめて、強くありたい、
強く生きたいと、思ったのです。


ああ、でもちょっと間が抜けていましたね。
弦が切れたバイオリンを、もっともらしく構えるなんて。
あれは秋の終わりでしたよ。落ち葉が乾いた狂気を囁く。
私はまったく、道化だった。
落ち葉が、まあ、くすくすと笑ったかな。


そう、あれからだいぶ経ちました。
貴方の手紙が、突然届いた。
冬は遠く日は温かく、
バイオリンの弦は切れている。
それなのに手が震えるのです。
私は道化です! 私は道化です!
今は春です。もうすぐ夏です。
それなのに落ち葉が見える。
耳は乾いた音で鼻は乾いた匂いで
両手いっぱいに落ち葉、落ち葉!
私の心は、老いさらばえた旅楽師の弾く、
胴にひび入ったバイオリンですか。
時間はいつでも流れてゆくのに、
掠れた悲しい音ばかりたてますよ。

航海はまだまだ続くので、
船乗りはようやく見えた星空にすがりつきます。
冷めてしまった、モカとアメリカン。
そんなものは、弦の切れたヴァイオリン。
私の心は調子っぱずれで、
春なのに秋の音ばかりたてる。
もうすぐです。もうすぐだと思います。

もうすぐ、梅雨だと思います。
雨が降ります。雨が。
ほの明るい白銅色の空から、
ベールのように雨が降りますよ。
薄い雨の膜を通して、
街は優しい、野山も優しい、
ベールのように雨が降りますよ。
私の心にも雨が降りますよ。

ひび割れてしまった大地が元に戻るとは思いませんが、
雨が降りますよ。雨が。
傷ついた表土は戻らないかも知れませんが、
芽吹きがありますよ。緑が芽生えますよ。
乾いた大地にも、きっと芽生えがあると思います。
狂ってしまった大地を、たぶん少しずつ元に戻してくれますよ。
もうすぐ梅雨だと思うのです。
優しい雨が、降ると思います。

ほの明るい曇り空の下、
小さな芽が濡れているでしょう。
輝く太陽は見えなくても、
雲を透かして、光を探しています。
どんなに雲が厚くても、光は見出せるはずなので、
こんなに薄い雲の層なら、
明るいもんさと、道化は飛び跳ねます。
しとしとと染みいる雨が、
元通りにはしないまでも、大地を湿してくれますよ。

秋の日に私は道化でした。
今は梅雨を待っています。
貴方の手紙が、届きました。
お元気そうで、何よりです。