<死と向き合って>

制作日:2003年6月13日


 ふと目が覚める。汚れた天井。雑然としたポスター。白々しい蛍光灯。駅舎
のベンチで寝袋にくるまっている自分がいる。外は暗い。時計を見ると、朝の
3時半。昨夜寝たのが8時頃だから、7時間ほど寝たことになる。寝るのが早
いから、起きるのも早い。
 寝袋から這い出す。寒い。桜が咲き出す3月末とはいえ、山中の気温は夜に
なれば氷点を下回る。衣類をありったけ着込み、雨具のビニルズボンまではく。
荷をまとめ、携帯食を腹に入れる。毎朝携帯食。喰い飽きた。
 自販機でミルクティーを買う。思わず脳裡に「ミティー」という言葉がうか
ぶ。バイト先でミルクティーの注文を通す際の略称だ。畜生、と呟く。一度脳
裡に染みついた接客の仕事は、旅に出ようが頭から抜けはしない。薄っぺらな
アルミ缶で手を温め、安っぽい砂糖水で胃を満たす。一人、背を丸める。
 4時。国道を歩く。街灯はあまり無い。左手に川が流れているはずだが、暗
くて何も見えない。道路脇の茂みすら見分けられない。懐中電灯を向けたが、
単三乾電池2個分の光は暗闇に吸い込まれた。木の葉一枚見分けられない。川
の対岸高くまで立ちこめる深い霧の彼方から、山々の頂が、その威容をあらわ
している。

 解き難い謎を突きつけて立ちはだかる古い神々の如く、霧をまとって夜を支
配しているかのようだ。

 交通量は少ないとはいえ、2、3分に一度は数台の車とすれ違う。大型ト
ラックが多い。轟音と共に走り抜けてゆく。歩道があれば安心だが、歩道のな
い道の方が多い。歩道がなければ、命懸けとなる。車が近づくと、ドブ板の上
によけて、必死に懐中電灯を振る。トラックは速度灯を2、3個点灯させて
走ってくる。ある者は灯ひとつまで減速して通り過ぎる。ある者は速度を落と
さず走り抜ける。歩道がなければ、ドブ板の上を歩く。ドブ板がなければ、ド
ブの向こう側に足をかけてやり過ごす。ドブの向こうに足をかける場所がなけ
れば、ドブが乾いていることを祈ってドブに飛び込む。街灯のない直線路を、
朝の四時に歩く者がいるなどと、誰が考えようか。相手がオレンジのセンター
ラインを割ってまで私を避けることを、期待はできない。
 川の対岸に浮かび上がる山々の頂が恐ろしく見えるのは、ひとつにはこの車
のせいだ。もし、もしもこの車の中で、ドライバーの一人が居眠りをしたらど
うなるだろうか。一晩中トラックを走らせ、疲労を感じて、溜息をつく。その
一瞬、わずかに意識がとぶ。徹夜でパソコンに向かっていれば、良くあること
だ。一瞬で意識はもどり、慌ててカーブにあわせてハンドルを切る。コースア
ウトしそうになった反動で、インコースをきつめに攻める。そのとき、ちょう
ど一人の若者が歩いている。荷物の端がひっかかる。体が強く引かれ、転倒す
る。後輪に巻き込まれ──

 山中の国道にはカーブがいくつもある。その多くのカーブのひとつで、多く
のドライバーの中の一人が居眠りをしたところに、たまたま自分が居合わせる
など万に一つの可能性だが、それが起きるかどうかについては、こちらが関与
する余地はない。歩道も街灯もない道を早く抜けようと急いでいるとき、霧の
彼方に浮かびあがる山々が、私の運命を知っているのではないか、という気が
してくる。この古老達は、私にどんな運命を用意しているのだろう、と問いか
けたくなってくる。
 ドライバーの溜息ひとつで、私の命は吹き飛ぶ。昔の人間は人の命の長さを
決める灯明があると考えたようだが、こうして国道を歩いていると、命を吹け
ば消える灯明に喩える気分は分かる気がする。文字通りひと息で吹き消される、
頼りない、小さい自分。

 四時半。光といえばオレンジ色の街灯ばかり。その光に目がくらめば、闇は
ますます深く、見極め難くなる。風が冷たい。フードをかぶりたい。しかし
フードをかぶれば、風の音と車のエンジン音が聞き分けにくくなる。後から近
づく車に気付きにくくなる。光がほしい。私の居場所をドライバー達に知らせ
る、光がほしい。朝が、待ち遠しい。

 この旅を始めて3日目のことだったろうか。歩道のずっと先に何か転がって
いるのが見えた。カラスがたかっている。小動物の死体らしかった。近づくに
つれ、体の向きが分かってくる。四肢を左側に投げ出し、頭をあちらに向け、
ちょうど私がこのまま前に倒れたらそうなるであろう向きに体を横たえている。
一羽のカラスが頭をついばんでいる。
 死体を見下ろす距離に近づくと、カラスは逃げ去った。逃げることのできな
い死体だけが置き去りにされた。頭に大きな穴が開き、赤い肉と桃色がかった
脳髄が露出している。口からわずかに血が流れ、腹はいびつに潰れ、足が一本
ちぎれかけている。車に轢かれたのか。タヌキかカワウソに見えたが、見極め
る前に通り過ぎた。気付くと、死体から少し離れたところまで肉片が散らばっ
ていた。白く、小さく、丸く、わずかに視神経のこびり付いた眼球が、半ば干
からびて足下に転がっていた。

 5時。轟音と共にトラックが駆け抜ける。それをやり過ごして、ふとトラッ
クの色が分かりやすくなっている事に気付いた。地面の様子も見える。河原の
茂みもシルエットとなって見分けられるようになっている。朝は近づいてきて
いる。

 トラックとすれ違うとき、私の心は落ち着いている。道を歩きながら、ああ、
この街灯の無いところを歩いていたら、死ぬかも知れないな、と思いつつ、私
の心に恐怖はない。回避すべき危険があり、達成すべき目標があり、下すべき
判断がある。さあどうしよう、と私は立ち止まって考えるだろう。死ぬかも知
れないと思いつつ、私は前進する。
 相手が動物だと、状況は変わってくる。一個の意志が殺害を意図して向かっ
て来るというのは、ある種独特な経験だ。私も相対主義を標榜する人間の端く
れである。死を恐れない覚悟はしている。しかし一個の殺意と対峙するとき、
思想だ覚悟だといったものを超えた恐怖が沸きあがるのを止められない。いや、
恐怖とは少し違うかも知れない。動物的な「震え」とでも言おうか。どんなに
冷静にしていても関係なく体を捕らえる、名付けることで把握される以前の、
名状し難い体験である。そんなものが、一瞬脊髄を這い上がる。
 ある晩、10時も過ぎようかという時間になっていたが、前進を断念して駅
に泊まろうと考えた。国道を降り、駅を求めて村に入っていった。村には街灯
などというものは存在しなかった。闇を払うには、懐中電灯の光はあまりに頼
りない。
 と、その時、背後に息づかいが聞こえ、恐怖が全身を貫いた。何も考えない
うちに、体が反応して懐中電灯をそちらに向ける。何も見えない。ただ低く抑
えた、囁くようなうなり声が、わずかに聞こえたのみである。そのとき、よう
やく頭が追いついた。「今のは野犬か?」それまでは、頭は働いていなかった。
何者かが背後に迫っていることに気付いた、その瞬間の感覚は忘れることがで
きない。震えがたっぷり一秒かけて全身を浸し、足の指先まで染み通った。そ
の殺意から逃れた後も、その印象が体の芯に残っており、落ち着くことができ
なかった。

 5時半。まだ街灯は消えないものの、周囲の様子は遠方まで見渡せるように
なった。川が遠くまで続いていることも、歩道のない道が続いていることも。
六時にはすっかり明るくなるはずだ。

 一日が始まる。目的地は、まだ遠い。