現代美術家に森村康昌さんという方がいらっしゃいます。この方
がご自身の作品について語られる中で、「美はざわめき」という事
をおっしゃっているのを目にしたことがあるのですが、そのとき私
はちょっとした感銘を受けました。この人は自分がどんなものを美
と思うのか宣言している。他の人があまり美と思わないようなもの
を、解説という形式の中で「美」といて呈示している。それ以来、
自分にとって美とは何なのかと考えるようになり、またそれを解説
の形で呈示してみたいと思うようになりました。自分自身のために
自分の考えを整理してみるという意味もあります。以下の文章は、
そうして始まったささやかな試みをまとめたものです。
1.美の概念について
<論理の豊饒なる乱れ>
私は「論理の豊饒なる乱れ」ということを、よく思います。論理
が乱れ崩れんとする一刹那に生ずる美があると思うのです。
極めて論理的に書かれた文は、整然としているかも知れませんが
温もりに欠けます。その彼方には、論理が全ての価値・全ての意味
を解体するであろう事がほのめかされています。論理のみによって
記述された世界、それは広漠たる虚無の世界、0か1かの揺らぎの
ない世界、分析しきれない細部のない世界、無限すら把握されうる
有限の世界なのです。
では、完全に論理を喪失した文はどうなってしまうでしょうか。
人間の思考はどうしても論理の支配を受けるもので、そのような文
を書くことは難しいでしょうが、仮にそのような文があったとすれ
ば、無作為的・無意識的に連ねられた言葉の鎖の中に、私達はさま
ざまな意味の断片を捉え、幸福・挫折・創造・破壊・聖性・不吉と
いったイメージを見出し、喜びや悲しみ、恐れといった心理の波立
ちを経験することもあるでしょう。しかし、それが大きなうねりを
生み出すことは稀であり、思想的背景と高度な関係を築くことは皆
無でしょう。論理を排除して連ねられた言葉は大きな構造を持ち得
ず、従ってしばしばリズムに欠いたまま冗長に続くことになります。
論理を排除してしまっては、思想的内容の雰囲気は伝えられても細
かな検討は不可能です。
思想的内容を追求していた論理が、ゆらぎ、崩れ始めたとき、広
漠たる虚無の世界に、歓喜・絶望・恐怖といった、私達にとって真
に迫力を持つ、直に価値を与える切に表現したい、曖昧でウェット
で熱い非論理性が流入し、妖しい魅力を放つのです。轟々と吹き荒
れる野分の力、馥郁と満ちる熱帯の香り、煌々と燃え、燃え尽きる
生命の炎、それらが一点の翳りもなく拡がる氷原、これ以上ないと
言うほどの鋭い緊張をはらんだ氷原、それ故にいつ破綻してもおか
しくない過大で絶え間ない力の衝突を内にはらんだ氷原、を、突き
破って浸入を開始するのです。そして急迫する展開の中で、論理が
分断され、しかし完全には解体されない一刹那、その一刹那の中に、
私は無上の美を見出すのです。
<真実と中庸>
私の興味は日常の風景を見たままに写し取ることにではなく、そ
こから何らかの一般化を行い、抽象的な形で呈示することにありま
す。でき得るなら真実と呼び得るような内容に到達したい。そのた
めには、ある1つの視点や、ある1つの心理状態に没入することは
拒否されねばなりません。常に偏向・極端を避け、中庸を心がけね
ばならないのです。
この点で耽美は無粋です。耽美はあまりに極端であり、耽美主義
は特殊なひとつの立場に過ぎない。耽美ではなく、耽美に陥らんと
する寸前の一瞬でなければなりません。また、論理と非論理におい
ても同様に、中庸の一点でバランスをとっている瞬間が、最も美し
い瞬間です。論理が際だっている部分は無粋です。論理的に筋が通っ
ており、ふんふん、その通りだと納得できてしまうような部分は、
実はある中庸の瞬間を準備するために書かれた、いわば刺身のツマ
に過ぎません。ある恍惚の一瞬のために、読者をじらしているので
す。そういえば論理における中庸は人間の立ち居振る舞いにも喩え
得るかも知れません。整いすぎていれば、とりつく島が無く興醒め
です。乱れすぎていれば、あられもなく無礼です。中庸にこそ美し
さがある。僅かにほころんだ蕾の美しさです。
中庸を心がけることは、常に継続される冷静な自己観察と、ある
種の鋭い感覚を要求します。その結果として私の小説の登場人物は、
自己批判が厳しすぎるあまり自己嫌悪を抱えており、感覚が鋭すぎ
るあまり神経症的です。あるいは、それらを隠蔽するために過剰に
自己欺瞞的であり、道化的です。また、中庸の極端な追求は、それ
自体極端であって中庸とは相容れないという逆説が、彼らの内にい
つ精神が崩壊してもおかしくないほどの自己矛盾を植え付けます。
真実と中庸の追求の故に、私の小説の登場人物達は不安定を抱えま
す。安定などというものは、ここでは欺瞞であり、怠惰であり、逃
避であり、文中における無意味・冗長・醜悪なのです。
<逆説的結合>
逆説的結合は、文脈からは独立して、ただそれ自体として素晴ら
しい、「美」と呼ぶに足るもののように、私には思われます。例え
ば美しいメロディにのせて深い絶望を歌う歌、荒々しく腐食した銅
板に描かれた繊細緻密な花の絵、悲しい人々の小さな喜び、そうし
た相反するイメージの逆説的な結合は、世界の矛盾をそのまま写し
取ったかの如く、思想的な深みと豊かなイメージの増殖を伴って、
私達の心に染み渡るのです。
2.繰り返しあらわれる主題について
<陰鬱な世界像>
私の作品における世界像は、世界の矛盾を反映して常に陰鬱です。
世界は様々なレベル、様々な局面で矛盾をはらんでおり、その矛盾
した世界の中で彷徨した魂達の救済の可能性を様々な形で追求する
ことこそが小説を書く際のひとつの興味ですから、当然出発点とな
る世界は陰鬱であり、主人公はその中で彷徨っています。このよう
な陰鬱な世界は、当然の事ながら好ましいものではありません。主
人公には何らかの救済が用意されねばなりません。
陰鬱な世界像が繰り返しあらわれる理由は他にもあります。現実
の日常には明るい話も陰鬱な話もあるわけですが、明朗快活な話は
喜んでおきさえすれば良く、わざわざ小説に仕立てる必要はない。
悲しい話をこそ小説に仕立てて、ただの悲惨から救い出す必要があ
る、というのもひとつの事情です。
<”調停”と自殺>
世界の矛盾を解決する上で、論理は究極的には無力であるのみな
らず、より多くの矛盾を指摘し、世界像をよりいっそう陰鬱なもの
に変えてしまいます。終いには陰鬱すら通り越し、矛盾をも含めた
あらゆる事象の意味を解体し、私達は虚無の淵に突き落とされるで
しょう。
全ての矛盾の調停は論理の解体──それはつまり全ての二項対立
構造の解体であり、万象の曖昧化を伴い、諸概念が何の理由も無し
に非論理的癒着を生ずるという状況を惹起します。論理の解体と言
うより、世界の崩壊と言った方が良いかも知れません──によって、
一応は成し遂げられます。そのとき、明と暗の弁別すら成立し得な
い初原の混沌の中において、全ての矛盾は解消されます。
この世界崩壊に近い現象が、しばしば「自殺」という形で成就さ
れますが、それらのいずれの場合にも、主人公は正確には自殺した
のでも死んだのでもありません。死んだのは論理であって、主人公
は自らを殺したと見せかけて、実は論理を殺し、論理に依存して展
開する物語を殺しているのです。その証拠に、主人公はしばしば自
殺してから発言しますし、常に自殺のシーンに主人公の遺体は存在
しません。存在するのに書いていないのではなく、実は存在しない
から書かないのです。
<記憶>
記憶の描写が多く、記憶が問題とされることが多い。この点に関
して大した理由はありません。私にとっては当然のことなのです。
私にとって如何なる新しい話題も、過去のいつかに起きたことと
本質的に変わりはないように思えるから、あるいは将来何が起きよ
うとも、世界の本質は変わらず、重要なことは重要なことであり続
けるだろうと思うので、私は過去にこだわり、過去を観察し、過去
から学び取ろうとします。生活の必要上、明日のことを考えること
が大切だとしても、未来や現在・また近すぎる過去は、事実関係が
充分に明らかとは言えず、解釈も定まらず、文学としての記述に堪
えないと思うので、時の中で熟成した過去を記述します。矛盾は常
に過去を背景として生じるので、たとえ矛盾を乗り越え明日を目指
すことが中心課題であったとしても、そこには過去がまとわりつき
ます。また、「陰鬱な世界像」の項で述べたことの繰り返しになり
ますが、過去を忘れられる人は幸福な人であり、幸福は共に喜んで
おけばよい、過去に囚われた人の話をこそ書かねばならない、とい
う事情もあります。
ところで、ひとつ注意しておきたいのですが、ここで言う「過去」
は自分の過去であって、歴史に学ぶという事ではありません。歴史
上の出来事も、本質的には我々が生きる中で経験する事柄以上の内
容は含まないように思われます。本質について知りたければ、わざ
わざ歴史に訊ねる必要はない。自分の過去を振り返ればよいと思う
のです。
<死者>
死者は現実としては実在せず、記憶の中にのみ存在します。そう
して記憶の中から、その記憶を保持する人に働きかけます。記憶が
生者に圧力をかけ、その圧力に従うにせよ、抗うにせよ、圧力を解
消するために生者がとる行動が、広義における「死者を弔う行為」
なのです。弔われた死者は生者に圧力をかけるのをやめます。
ここでの死者は現実に死んだ者のみを指すわけではありません。
過去のものとなったにも関わらず、記憶の中にこびりついて生者に
圧力をかけるもので、擬人化が可能なものは全て「祟りをなす死者」
と同じ働きをするのであり、従って広義の「死者」に含めることが
できます。死者はこの世界の矛盾が具体的な形を取ってあらわれた
ものであり、従って調伏される必要があります。調伏できない場合、
死者の要求を満たせない生者は精神を病み、徐々に矛盾に飲み込ま
れていきます。
ここでひとつ注意を喚起しておきますが「”調停”と自殺」の項
で挙げた自殺者は、ここで言う「死者」とはまったく異なる存在で
す。繰り返しになりますが、そもそも彼らは死んでいません。現実
における「死」は、死の後に記憶(それは人々の脳裡に刻まれてい
ることもありますし、「死体」という物質の形を取って、「ここに
かつて人が生きていたが、死んでこのような処置をされてから、ど
れだけ経ったから、このような変化を生じた」といった内容を保存
していることもあります)を残します。きれいさっぱり無くなると
いう事はあり得ません。その点、前述の自殺者は「死んだのに何も
残さない死者」であり、本項で述べている死者は「(ある場合には
死にもしないのに)様々なものを残す死者」です。本項で論じてい
る死者の要点は「生者に働きかけ、弔いを要求する」という点なの
で、何も残さない「清潔な死者」とも言うべき前者は、ここで言う
死者の部類には含まれません。
以前と変わってしまった他者は、「今のその人がかつてのその人
を殺した」という形で殺人のメタファーに良く馴染みます。ですか
ら、このような「かつての人」、もはや面影も認められなくなって
しまった、ある人の失われた過去の姿は、死者の中でも良く登場す
る死者、よく出会う死者と言えるでしょう。また、死者達の周縁部
には、死と呼べるような破局は迎えなかったにせよ、傷つき血を流
した人々がいます。彼らは「痛ましい者」としても死者の列に準じ
ますが、「傷ついたときには助けを求めて謙虚だった者が、傷が癒
えると元の傲慢さを取り戻す」これもまた「以前の、もう面影もな
い他者」として死者群の重要な一部をなしています。「血球細胞の
死」を考えると、イメージしやすいかも知れません。流れた血には
生きた血球細胞が含まれており、生物体は傷が癒えて助かっても、
血球細胞は死ぬのです。人間は部分的に死に得るのであり、人の一
部分のみが死者となることも、あり得ることなのです。ある人の失
われた性質を我々が忘れられず、その事によって影響を受けるなら、
その失われた一部は、正に祟りをなす死者なのです。その人自身は
生きているのに、その大切な一部は死んでしまったというような場
合、生きているその人自身が繰り返し目の前にあらわれては、死者
の存在と悲しみを思い出させるので、死者の生者に対する影響力が
強く、要求もしばしば激しいものとなります。
その人が生きていながら、その人の一部だけが死ぬなどという事
が起きてしまう、これもまた死者を巡る多くの矛盾のひとつです。
3.要求される文体について
矛盾に満ちた陰鬱な世界において、死者を弔い矛盾を調停し、そ
うして彷徨せる魂を救済するために、論理の解体が要請されます。
そして論理を解体するために、私の書く文章は論理的に理解可能な
説明文ではなく、読者の、そして何より著者自身の論理的思考を停
止させ破壊する、論理によっては理解しがたい呪文のようなもので
あることが要求されます。この呪文に読者がかからなければ、呪文
を唱えた施術者の腕が悪かったということになるでしょう。私は大
いに反省せねばなりません。
大時代的な言葉ではありますが、文学においても哲学においても、
私は真実を追い求めているのです。それは単純に論理を純粋化して
も得られないようでした。全ての意味の解体が真実だというのなら、
そんな真実はいりません。私が「真実」と名付けて追い求めている
ものは、そんなものではありません。論理的に正しければ真実とい
うわけではないようです。では、真実とは何か。分かっていれば苦
労しません。顔も知らない「誰か」を捜し求めて、人混みにもまれ
ているようなものです。この探索は結局、私に「これが真実」と思
い込ませるような、私をうまく騙したものを「真実」と信じ込んで
しまう結果に終わるかも知れません。ですから「これぞ真実」と思っ
たところで、この探索を終わりにして良いとも考えられないのです。
こんな事を言っている私は、科学万能の時代に錬金術を夢見る時
代錯誤の愚か者かも知れません。しかし、もうしばらくフラスコを
いじっていれば、何か糸口が見つかるのではないかと、今はただペ
ンを走らせるのです。
20歳の年の大晦日に Phicho