<美の多様性・拡張性>

制作日:2002年12月28日


 美を定義せよと言われると、返事に窮してしまいます。美とはつ
まり何なのか、答えるのはまことに難しい。それは「美」という概
念がそもそも曖昧だからという事もありますが、私は「いくらでも
新しい『美』を生み出しうる」という点も、原因としてあると思い
ます。現代美術の森村康昌さんという方は「美は(心の)ざわめき」
という事をおっしゃいますが、例えばこれなど、心の中に生じるざ
わめき、ざらついた感覚を、美だと考える人が、そんなに多いとは、
私は思いません。森村さんという方が「美はざわめき」という事を
言いだした、まさにそのとき「ざわめき」は新しい「美」として生
まれたのだと、私は思うのです。そうなると、具体的に「これが美
だ」と言うことは難しくなります。「これが美だ」と言っても「こ
れは美じゃないのか?」「あれも美じゃないのか?」と、いくらで
も疑問を出せてしまう。いくら今ある「美」を全て含むような定義
をつくっても、そこからはみ出る新しい「美」が、際限なく登場し
てしまう。そうなると、美の定義とはルールの形でしか不可能とい
うことになるかも知れません。このルールに従って生み出されたも
のが美である、というようなルールです。このルールに従えば、い
くらでも新しい美を生み出せる、というようなルールです。そうい
うルールを指摘することなら、何とか可能かも知れない。これから
無制限に登場する「美」を全て列挙することは不可能ですが、この
線の延長上に登場するものが全て「美」である、と言えば、これは
未来の美、未生の美を含む「美の定義」になるかも知れない。
 最も、この考えもかなりあやしいものです。そんな全ての「美」
に共通するルールだ、性質だと言ったものが、本当にあるのか。無
いかも知れません。科学哲学の分野などで登場する「家族的類似」
と呼ばれる考え方の方が、むしろ当てはまるかも知れない。

 「家族的類似」とは何か。例えば「ゲーム」というものを定義し
ようとすると、難しい。サッカーと野球には似たところが沢山あり
ますが、トランプのポーカーとスポーツのサッカーや野球ではまる
で違う。それでも共通点を拾い上げることはできますが、あのゲー
ムはどうか、こちらはどうかと考えるほどに、全てに共通の要素は
少なくなっていく。1人遊びのゲームもあるでしょうし、勝ち負け
の概念が希薄なゲームもある。ゲームは遊びだと思うと、遊びでは
済まない命がけのゲームもある。それでもどうにか共通の性質を見
つけだすと、それはゲーム以外のものにも共通だから、ゲームの定
義にはならなかったりする。ゲームの定義は難しい。いや、不可能
なんじゃないか。そこで登場するのが「家族的類似」です。私と私
のいとこに直接的な関係が無くとも、「私−私の父−私の伯父−私
のいとこ」というように、間接的には関係があり、同じ血縁グルー
プに属する。同じように、ゲームAとゲームDはちっとも似ていな
くても、「AとBは似ている−BとCは似ている−CとDは似てい
る」と間接的な関係をたどることができて、ABCDは全て「ゲー
ム」の範疇に含まれる、といった考え方です。要素全てに共通の特
徴も、全てに共通するルールもない。ただ要素が互いにつながって、
ひとつのグループを為している。

 美の概念がどのように拡大していくかの検討は、このくらいで置
くとしましょう。なににせよ、ここでのポイントは「美の概念は多
様であり得るし、拡張されうる」という点、更に言えば「我々は今
自分が『美しい』と感じるより、多くのものを『美しい』と感じる
ことができる」という点です。美は多様であり拡張され得るのです。