<芸術に説明を付することについて>

制作日:2002年12月28日


 現代美術をなさっておられる森村泰昌さんという方が、2002年の
2月から3月にかけてNHK人間講座に講座を持っていらっしゃい
ました。この方は変装したご自分の写真にペイントを施して過去の
画家の作品をコピーするという、奇妙とも言える作品で有名な方で
すが、同時に「芸術作品の見方」というお話をよくされる方です。
ご自身の作品をどう見たらいいのかも、よく話されます。
 一方で一般には、芸術に作者が説明を施すのはルール違反だとい
う考え方もあるようです。作品というものは虚心坦懐に見てもらう
ものだ。余計な解説は付けるべきではない、作品から直接感じ取っ
てもらえなければ、説明を付けなければ分からないものは作品とし
て不完全なのだ、といった考えをよく耳にします。しかし、私はこ
の一般に流布した考えを、全面的に支持することには戸惑いを感じ
るのです。その理由は色々ありますが、たとえば「虚心坦懐に見る」
などという考え方は、哲学では随分昔に否定された考え方でしょう。
哲学的に突き詰めて考えてみなくたって「我々の認識にはフィルター
が掛かっており、そのフィルターを通してしか我々は物事を認識す
ることはできない」という事実を示唆する出来事は、身の回りにい
くらでもあります。少し芸術らしいところから一例を引くならば、
アフリカ美術の発見などが挙げられるでしょう。アフリカの、特に
非アラブ地域の文化は、植民地主義者の多くによって野蛮なものと
さげすまれ、少なくとも多くのヨーロッパ圏の人々によって無視さ
れてきた。それをピカソをはじめとする20世紀初頭の芸術家達が
発見し、価値あるものとして紹介した。このように私達は聞いてい
ます。ここから「フィルターが整っていなければ、価値あるものも
見逃してしまう」「フィルターを準備することは価値あるものを認
識できるようにすることだ」といった一般化が可能です。芸術に説
明を付すことで私達が新たな価値あるものに出会えるのなら、それ
は祝うべき事ではないでしょうか。特に、一般には認知されていな
いものを「価値あるもの」として呈示しようとする場合、説明は有
効であり、有益なのではないでしょうか。先述の森村さんは「美は
ざわめき」とおっしゃいます。見る者と見られる者との間の緊張感、
どこか奇妙なものに出会ったときの違和感、心に拡がるざわめき、
そこに森村さんは面白味を見出すわけですが、このような感覚を価
値あるものとして評価する方がどれほどいるか、ちょっと少ないん
じゃないかなと思います。ならば、説明して理解を求めた方が良い。
 もっとも、森村さんご自身にとっては「ヘンなものだな」と顔を
しかめて通り過ぎてしまう人がいることも予期される、むしろ期待
される反応なのかも知れませんが……私はやはり、それを良いもの
として、少なくとも興味深いものとして、評価してもらえる方が良
いと思います。

 説明的に過ぎて作品そのものから受ける感動が薄れてしまったり、
理屈が先行して作品がなおざりにされてしまっては問題ですが、芸
術に付される説明は価値の認識を助ける、ある場面では必要なもの
だと思うのです。そしてそれこそが、批評家の役割なのでしょう。