メーリングリストに投稿があった。返事は私がしなければ誰もしな
い。画面上にチラつく文字、徐々に衰える視力、神経が焼けこげた
かのように、一昨日から頭痛の予兆が消えない。文学、哲学、歴史、
進まない研究、何の本を読んでいても、ふと気付けば思い出に浸っ
ている。疲労を感じた。
力なく椅子の背に身を預けると、優しい風が窓から入っているのに
気付いた。その風に誘われるままに、河原へ散歩に出る。夏の日差
しに熱せられた路面が次第に冷めてくる頃、少し冷たい風が髪を吹
き乱す。手には芦を束ねた笛。芦笛の音は風の音色だと誰かが言っ
ていた。こういう日には、丁度いい。
夏も盛りを過ぎ、アブラゼミの躯が乾いて転がっている。夕闇に飛
びまわるコウモリ達の遠い声が宙に満ち、私の心を麻痺させる。西
日に染まる雲は次第にけだるい桃色にまどろみ、東の空は不思議に
透き通った深い青色に沈んでゆく。小道を歩いていると、途中の墓
地から提灯をさげた一団が現れた。迎え盆だ。
迎え盆──死者の霊が帰ってくるとされる日。墓地で灯した火を家
に持ち帰り、その火で祖霊を家に導く。途中火を絶やせば、祖霊は
道を見失うという。繰り返し回帰する死者達。その名を忘れられた
、無顔貌の帰還者達。もはや彼らが何を語らんとしていたか、誰に
も分からない。宙に満ちる彼らの言葉は誰にも理解できない。あの
コウモリ達のように。あの空を飛びまわる影達を死者の霊魂に見立
てたのは、いったい誰であったか、思い出せない。言葉は思い出さ
れても、その名は思い出されない発言者達。発言を通じて回帰する
、名も忘れられた帰還者達。彼らもまた、私の脳裡を彷徨する死霊
の如き者達・・・
芦笛が風に吹かれて鳴るに任せて土手を歩くうち、唐突に随分前に
知り合いだった少女の面影を思い出した。何故今さらあんなに昔の
姿を? 耳元に芦笛を近づけると、風が音となり音が風となって、
歌うように語るように、耳元をかすめては消えてゆく。何故今さら
あんなに昔の姿を? 答えが聞こえそうで、聞こえない。何故今さ
らあんなに昔の姿を?
昔に知り合いだったというのは正しくない。今でも知り合いだ。彼
女は死者ではない。頭上に黒々と横たわる鉄橋を空の貨車が駆け抜
け、轟音が一瞬、暴力的に思考を奪い取る。誰が死者ではないと?
彼女は死んだ。ずっと前に。事実と感覚の衝突と混乱。確かに彼女
は死んではいないが、ではあの頃の彼女を探しても、世界のどこに
もいないのは何故であろうか。彼女の面影が私の脳裡に死霊の如く
現れたのは何故であろうか。彼女が死者ではない? かつての彼女
は失われたというのに? 彼女自身さえ、失われた者を悼まないと
いうのに? やはり、彼女は死んだのだ。彼女の霊は私の元へ回帰
し、弔いを求めて私に取り憑いたのだ。だからこんな事を思い出す
のだ。彼女自身が過去を祀らず、過去と共に生きようとしないため
に──しかし、死者のために燃える火など私の内では当の昔に消え
去り、灰の中に熾の如く蠢くだけなのだが。火を絶やせば死者は道
を見失う。消えかかった火にアルコールを継ぎ足して燃料にするよ
うな趣味の持ち合わせはないが、せめて私の中では、頼りない熾火
を守っていこうか。かつての彼女のために。あるいは、自分の過去
のために──自分の過去? 回帰した者は私の過去だというのか。
死霊の如く甦った私の記憶達が、弔いを求めて夜な夜な現れては、
私に取り憑くのだろうか。
──近ごろ眠りが浅い。
いよいよ光の弱まる西の空に、黒々とした積乱雲が、王城に聳える
巨塔の如く幾筋も立ち上がっており、時折その中を稲妻が走り、雲
全体を夢幻的に照らし出している。しかし雷鳴は全く聞こえない。
嵐の激しさを内に秘めながら、飽くまで静寂の中に描き出される空
の王城。
平凡な、しかし頑として実在する物語群。過去の己を弔わなかった
者が、嘗てどれ程いたであろうか。己の過去として他者を弔う者が、
これからどれだけ現れるであろうか。繰り返される平凡な物語は私
を通して回帰する過去と未来の死者達であり、各々が弔われ祀られ
るべき無顔貌の帰還者達である。シャーマン達の理解しがたい祝詞
によって葬られる・・・──左様、全ての想念が理解しがたく混乱
している。諸概念が相互に似ていると言うだけで結合し、論理と情
動は共に実在だというだけで癒着を起こしている。が、唯一確かだ
と思われるのは、「弔わねばならぬ」という事だ。そのように、思
える。
日が落ち、河原は闇に沈み、川面だけが空の残照を写して青灰色に
浮き上がる。川面から黒々と突き出た石に乗り、波の揺らぎと対岸
の揺れる木を眺めていると、あるいは水音とコウモリ達の声を聞い
ていると、はた風のなぶるに任せ、芦笛を吹き鳴らすと、川面の上
の闇の中から、様々な記憶が浮かんでは消えてゆく。様々な時間、
様々な物語。それらをすべて、風の音に葬ってきたのに、
──死者とは、誰のことであろうか。
風が芦笛を吹き鳴らし、芦笛は風の声を奏で、
波のあわいに。
風が髪をかき乱し、揺れるままに過去は過ぎ去り、
闇のあわいに。
星はめぐり、歴史はめぐり、世界はめぐり、
その間も、風は西から東へと吹きすぎ、吹きすぎ、
すべてを持ち来たり、すべてを運び去り、
物語は生まれ、逝き、再び還る。
遠く遠雷が雲の内に瞬く。神々の啓示の如く、
遙か遠く、音もなく、青ざめた空の中に。
過去にあり、また未来のいつか再び出会うと。
そうであれば
波のあわいに、
風になぶられるままに、
闇のあわいに、
循環する、
すべての物語は、
ここに葬ろう。芦笛の音と共に──