雪の思い出


 静かに浴槽に身を浸していると、窓外の雨音が聞こえてくる。信号が青くなっ
たのだろう。車が道路際に水をはねとばす音がいくつも続く。天気予報は午後
から雪だと言っていたが、午前0時をすぎても雨は雪に変わらない。子供はがっ
かりしているだろう。雪の天気予報がはずれると、私も昔はずいぶん落胆した
ものだ。そういえば今は天気予報がはずれても何とも思わず、車の音に耳を傾
け、ヘッドライトを浴びた雨粒が夜の闇に描く軌跡などを想像している。

 雪が降ると犬と子供がはしゃぐという歌があるが、私もまた冬になれば雪が
降らないかと天気予報に期待を寄せる子供の一人だった。小学生の頃に2回ほ
ど遊べるくらいの雪が積もったことがあったが、その時のことは鮮明に憶えて
いる。一度はドラえもんを象った雪だるまを作り、もう一度は小さな鎌倉を作っ
た。雪の少ない南関東の小学生にとって、これだけの物を作れる積雪は一大イ
ベントだった。さらに幼い頃には香港に住んでいて、雪は一切見ていない。

 小学校中学年の頃に作った、稚拙な版画がある。兄が鎌倉の中に頭を入れて、
最後の仕上げをしているところを表現したものだ。兄の背中が描かれている。
四歳年上の兄は、小学生にとっては大きな存在だった。小学生の私はいつでも
兄の助手に回っていた気がする。兄が決め、兄が中心となり、私は優秀な脇役
であることをいつも目指していた。版画の中で、私の顔は喜びに大きく目を見
張っている。それなりに、嬉しかったのだろう。幼い小学生が、幸せな記憶と
して版画にとどめたのだから。

 四歳年上の兄は、やがて雪でなど遊ばなくなった。小学生は何かが失われつ
つあることを知っていたのだろう。わずかな雪が地面を覆った冬に、その雪を
掻き集めて何とか鎌倉を作ろうとした。自分自身雪遊びをする年ではなくなっ
ていたが、雪で何かを作ることにあくまでこだわった。雪の量も質も、とても
鎌倉など出来るものではないと分かると、集めた雪を削って何かを作り始めた。
写真で見たことのあった、アンコール・ワットが出来上がった。高さより広さ
が大きく、大きいわりには回廊以外の部分は何もない。そんな物しか作れない
ほど、必死に掻き集めた雪は少なかった。アンコール・ワットと言われなけれ
ば、雪でできた長方形の枠にしか見えなかっただろう。小学生はそれで良しと
したが、どこかで虚しいあがきであったことを知っていた。翌年、私は中学生
になり、もはや雪でなど遊ばなくなった。

 こんな事がよくあった。幼い頃、盆踊りのときの屋台で買った食べ物は、い
つもと違って美味しかった。ある時屋台で何か買ってくるかと問うと、家族か
ら幼い子供のおねだりを仕方なく聞くような反応が返ってきた。まずい焼きそ
ばを食べ、翌年からは、会場から響いてくる「東京音頭」を自室で聞いて、屋
台のざわめきを想像するだけになった。幼い頃、クリスマスには必ずツリーを
飾った。ある年、ツリーは出さなくてもいいか、という雰囲気を感じて、イベ
ント物は楽しむべきだ云々と言って一人でツリーを飾り付けた。シックにまと
めた色調が家族にはうけたが、やがて忙しくなって家を空けがちになった私は
何もしなくなり、代わりに母が何かとクリスマス飾りをこだわるようになった。
今年はベランダにイルミネーションがついたようだ。

 我に返って、浴槽を出た。指にしわが寄っている。思い出に浸っていて、
出るのが遅すぎたようだ。

 私はいつも、こんな事をしてきた気がする。過去を探して思い出に浸り、う
まく行かずに遅すぎたことを知る。いつも私は過去を探してきた気がする。過
去の美しい記憶を蘇らせようともがいて、もはや何かが失われてしまったこと
を知る。それを得るには遅すぎたことを知り、落胆し、少しだけ何かを学び、
何かを失った。沢山の「何か」を失って、いつの間にか過去を探すのは止めて
しまった。それでも、過去を反芻するくせは残ったが。
 幼稚園生にとって越えがたい壁だった四歳年上の兄は、小学生にとって頼り
甲斐のある兄になり、中学から高校にかけて関係の薄かったクールな兄弟は、
大学生になって大差ない対等な関係になっていた。一人は理系で機械をいじり、
一人は文系で思想を志した。何かが失われたし、何かが失われようとしている
が、もはや無邪気に再現を夢見て過去を追いかける年でもなくなった。何かを
失って、何かを得るだろう。過去は溜息と共にときおり思いだし、溜息と共に
意識から追い出すものになった。

 外の雨音はますます大きくなり、外を通る車はトラックばかりになってきた。
遅すぎた物事は取り返しもつかず、溜息をついて失った物を見送り、得たもの
の苦みを噛みしめるしかない。トラックの運転手達は前の車の赤いテールラン
プを眺めて、何を考えているのだろう。何も考えることもできず、赤く照らし
だされた夜の闇を見透かしているのだろうか。失った物を一つ一つ数え上げる
わけにもいかず、ただ過ぎ去ってきた時間を、夜半過ぎの静かな部屋でパソコ
ンのキーボードに刻みつけている、私のように。