プラグド・ゲーム雑感


 プラグドゲーム──電源プラグを挿して遊ぶテレビゲーム・パソコンゲーム
の類──について語ってみたい。

 なぜいきなりゲームかと訝しがられる方もおられるかも知れないが、何を隠
そう私はゲームに目がない。特にキャラクターの視点で戦う3Dシューティン
グとパズルが好きだが、その他のジャンルでもグラフィックが美しいとプレイ
してみたくなる。ゲーム性をひたすら追求すると言うよりは、ゲームの世界を
物見遊山する軟派なゲーマーといったところか。ただし時間もないこと、国産
のゲーム専用機はまったく買わないし、パソコンゲームにしても製品版を買わ
ずにデモ版ばかりをつまみ食いする、ソフトウェアメーカーにとっては言語道
断のユーザーだが。

 ゲームなど低俗で時間の無駄だと言われても、好きなものは仕方がない。仕
方がないし、ゲームもそう捨てたものではないと私などは思う。一時はゲーム
という媒体の表現力に夢を抱いて、ゲームデザイナーを目指していたこともあっ
たくらいだ。みなさんご承知の通り、プラグドゲームの多くは映像と音声を要
素として含んでおり、この両者が芸術と呼びうるところまで洗練されてはなら
ない理由はない。また私の愛するパズルゲームには込み入った謎を解く知的遊
戯の楽しさ、洗練された奥深いルールを通じて制作者の優れた知能に出会う喜
びがあるし、3Dシューティングには他の表現媒体にない鑑賞者を巻き込む強
大な力という魅力がある。ゲーム独自の表現手段としての長所が存在するのだ。
ひとりの意欲的な表現者を魅了して離さないだけの色気はあると思う。

 いままでに出会ってきた魅力的なプラグドゲームについて語り出せば、それ
こそ話は尽きぬ。ここではパズルゲームと3Dシューティングについて、思い
つくまま更に語ってみよう。
 パズルというものはプラグドでなくとも歴史と共に古く、実に様々な種類が
存在する。人類の発達した大脳は問題を解くことを求めてやまず、星々の謎を
解いて暦を作ったり旅路での自分の位置を特定したりするといった必要な謎に
は飽きたらず、みずから謎を作っては解くという奇妙な行いを、それこそ飽く
ことなく繰り返してきた。手持ちぶさたになる度に人間が生み出してきた謎の
豊富なことは、行動を起こす度に人間が為してきた祈りの数と変わるところは
あるまい。手持ちぶさたとは行為の欠落であり、無意味な時間であり、死の破
片である。そして人は生の営みの中で祈り、死の破片の中で謎を作ったのだ。
それら死の記録のうち、名作は時を超えて現代に伝わっているし、現代に於い
ても名作は生まれ続けている。優れたパズルは我々を魅了してやまない数学的
美であり、超越的な知能が生み出した我々を陥れる魔法である。タングラムの
角度と長さの魔術的な一致や、ルービックキューブの美しいシンプルな形状を
考えてみると良い。パズルは美であり、罠であり、歴史であり、生の記録とし
ての祈りと対をなす死の記録なのだ。
 プラグドのパズルゲームにも、その血脈を受け継ぐゲーム達は存在する。電
源プラグと集積回路がパズルにもたらしたものは、サイコロではとても追いつ
かない大量・高速な「偶然」の創出であっただろう。チェス盤上のどこかにボー
ルが出現することを考えてみれば、これがいかに凄い事であるかがわかるはず
だ。人間が出現位置を決めれば、どうしても意志が介入して、ボールの出現位
置がランダムでなくなってしまう。サイコロを使えば偶然性は確保できるが、
チェス盤には64のマスがあるのであり、サイコロでどこに出現するかを決定
するには最低三回サイを投げねばならず、そのうえ煩雑で美しくないルールに
沿ってサイが決めた場所はどこなのかを計算せねばならない。ましてや三つの
ボールが出現し、かつその色は6種類のうちのいずれかであるなどと言ったら、
ゲームは成立しない。集積回路はこの問題を見事に解決してくれる。すなわち、
複雑な偶然の介在するゲームはプラグドであって始めて可能になったのであり、
この新しい分野でこれからも多くの名作が生み出されていくことだろう。
 また視覚的美という点ではCGが新しい美を見せてくれている。古くから存
在するパズルにもチェスのコマと盤の美しさや組木細工の暖かみといった限り
ない魅力が存在するが、CGは空中に浮遊する光の球やガラスの中に大理石を
封入したような円柱、色の変化するブロックといった現実では難しいオブジェ
を我々の目の前に出現させてくれる。異次元からやってきたような不思議な球
体を操る感覚は、ビリヤードの球の動きを見る、あのときめきに似ている。私
はビリヤードをプレイするときニュートン力学が統べる惑星の運動をイメージ
するが、同じような物理法則の運用者になったかの如き感覚が、そこにはある。
パズルを解く者は数学的法則の運用者であり、世界を支配する者、神の片鱗な
のだ。

 パズルとは対照的に、キャラクターの視点から繰り広げられる3Dシューティ
ングはプラグドゲームの中でも特に歴史が浅い。(ちなみにプラグドゲーム中
の最長老は飛行機が撃ち合う2Dのシューティングである)そしてしばしば血
を伴う残虐な描写はいかにもセンスに欠くものが多く、社会からの批判にも事
欠かない。しかし、そんな中にも魅力ある作品は存在し、それらを生み出す独
自の魅力が、3Dシューティングにはある。
 3Dシューティングの表現手段としての最大の魅力は、なんといっても世界
を創造できる点だ。プレイヤーはステージの中以外を動くことはできない。す
なわち、ゲーム中のプレイヤーにとってはゲーム制作者が作り出したステージ
こそが全宇宙であり、ゲーム制作者は宇宙の創造主としてみずからの創造力と
想像力をデジタル空間に開花させ、飛び舞わせることができるのだ。ことにC
Gが生み出す奇妙な、しばしば疎外感を伴う独特の映像は、妖しい魅力となっ
て私を捉え離さない。またゲームの世界は遊びのためだけに生み出される世界
であり、建築構造としての安全性も実用性も必要ない。奇妙に歪み、穴の中や
柱の影に謎が潜むゲームの世界で、我々は再び「謎」の魅力に絡め取られる。
この世のどこにも似ていない場所で、謎に満ちた奇妙なオブジェを前に、人間
のようでありながら魂をもたないAIに囲まれ、命の保証のない旅をする。単
にスリルとグロテスクを求めるのではなく、一つの世界観をもって作れば、3
Dシューティングは他にはない魅力を放ち、妖しく輝き出す。
 このような世界観をもった3Dシューティングにおいて、「敵」なる存在は
我々をゲームの世界に瞬時に、深く深く引きずり込む媒介者である。我々は何
の脈絡もなく「敵」なるものとはち合わせになり、殺すか殺されるかの理不尽
な関係を強いられる。しかし敵が何者であるか、なぜ戦わねばならないかは二
義的な問題に過ぎない。重要なのは我々がゲームという世界で、高度の緊張を
強いる行動をとらねばならないという事だ。ここで我々はモニターを覗く観察
者からモニターの中の行動者になる。現実世界で行動する人間から、仮想の世
界で行動するキャラクターへと変わるのだ。我々はそこが作られた仮象の世界
であることを忘れ、仮象に没入し、仮象に遊ぶ。

 世界観をもつ優れた3Dシューティングは、残念ながら未だ少ない。ほとん
どはスリルとグロテスクを追求するに過ぎない。しかし、そうしたゲームにも
興味深い点はある。グロテスクを追求するようなゲームをプレイする人々は、
そこで何をし、何を見ているのか。あるいは、顔を背け眉をひそめる人は何ゆ
え嫌悪感を抱くのか。私は血飛沫のむこうに沈むグロテスクな怪物に、時とし
て我が身を重ねる自分を見出す。単純ではないのだ。グロテスクな怪物のあげ
る血飛沫を透かして見えるものは、時にさらにグロテスクで、時に悲しく美し
い人間心理の深奥である。

 以上、プラグドゲームの魅力を語ってみたが、やはりプラグドゲームが社会
からあまり認められないのにも理由がある。ゲームを代表するようなビッグネー
ムが、いまひとつ洗練されているとは言い難いのだ。これは、ひとつには関係
者がそれを求めていないことがあるだろう。これは3DシューティングやRP
Gで特に言えることだが、プレイヤーも制作者も激しさを求めるばかりで、で
きあがり消費されるゲームには今ひとつ洗練されたセンス、抑制の効いた表現
が欠けている。またゲームとしてのボリュームが求められ、冗長になってしまっ
たり細部に力を注ぐことが難しいといった問題もある。細部へのこだわりとい
う点ではファイナルファンタジーXはよく頑張っており、美しい映像を見せて
くれたが、やはり過激に偏している面は否めないし、ストーリーも消費の対象
という域に留まっている。消耗品の中では最高級品でも、粗は隠れようもない。
また、もはや驚異的な売れ行きにも関わらず採算を割っているという話もある。
ゲームとしてのボリュームと細部へのこだわりを両立させた結果、制作費が莫
大になっているというのだ。これらは映画にも言えることだろうが、何を立て
て何を我慢するか、どこで妥協するか、あるいはどうやって妥協しないか、難
しいところだ。
 また、プラグドゲームには機器の能力的限界という問題もある。3Dシュー
ティングのキャラクターの形状ときたらひどいものだ。この点に関して絶賛さ
れたファイナルファンタジーXでさえ、髪はいささか不自然が目立った。まし
てや大半の3Dシューティングのキャラクターなど、語るに値しない。できる
だけ見ないようにしてプレイするのが適当というものだ。効果音も音質が悪く、
耳障りな雑音にしか聞こえない効果音にしばしば出会う。

 プラグドゲームには課題もある。が、それでもやはり魅力は魅力として、否
定はできないと私は思う。ここで語らなかったプラグドゲームの魅力と可能性
はまだまだある。別の人に語らせれば、別の魅力もあるだろう。随分冗長になっ
たようでもあるし、いまはここで筆を置くが、貴方が言われもなくプラグドゲー
ムを批判的に見ていたなら、どうかその独自の魅力を知ってほしい。そしてゲー
ム・クリエイター諸氏には、誇りを持って名作を生みだしてもらいたい。私を
罠にかけてくれる魅力的なゲームと出会えることを、私は願ってやまない。