ドアをあければ、そこはアナザーワールド

 だってそうだろう。ドアと言うのは壁で仕切られた二つの空間を行ったり来たりするための出入り口なんだから。そりゃあ、そうじゃない場合だって無論ある。何ごとにも例外はある。例えば爆弾で破壊された家屋だ。壁も天井も崩れて、はずれかかったドアだけが残っている。それならいくらドアを開けるまねごとをしたって、一つの空間に突っ立っていた板の向きが変わるだけと言う事になる。しかしだ、理科で人間の体について習っている時に「肋骨の中には内蔵がつまっています」「でも先生、骸骨だけになっちゃった人の肋骨の中には内蔵はありませんよ」なんて言ったらどうだろう?アマノジャクはやめようじゃないか。とにかく、ドアをあければ、そこはアナザーワールドなんだ。

 さて、そこで私は少しばかり広い私の家に、小さな部屋を沢山作った。それぞれの部屋の壁紙は全て異なるものを使った。そして、ドアを沢山つけた。

 人は私を変わり者と言う。しかし、それがどうした?私はロマンチストなんだ。色々な部屋を作り、ドアをあければそこには今までと異なる世界が私を待ち構えているようにしたんだ。これを馬鹿らしいと笑う人間達。彼らこそ笑われるべきだ。なんて夢のない連中なんだろう!金を稼ぐ事にばかり夢中で、童心を忘れてしまった大人達だ。私は年をとっても、心は常に若々しくいたい。そう、この家は常に新しいものを求める心、冒険心を忘れたくないと言う私の願いを体現している。この家のドアをあける事によって、私の願いは象徴的に成就されるんだ。私が小さな部屋から部屋へとドアを開けていく様を理解できないと言う輩。なんとまあ理解力のない事だろう。私の概念は彼らが理解するには、あまりに抽象的すぎるんだ。彼らはもっと具体的な、易しい事でないと理解できない。

 私はロマンチストなんだ。





 ふと、恐ろしい考えが浮かんだ。

 私の家は新築からまだ一年しかたっていなかった。しかし私はある日、恐ろしい事を思いついてしまったのだ。

 「私は毎日同じ部屋を覗いて歩いて、それで満足してしまっている。私もいつの間にか世間の連中と同じように、一つの場所に安住するようになってしまったのではないか?」

 恐ろしい事だ。永遠の冒険者、貪欲なロマンチストを自負するこの私が、いつの間にか今あるもので満足するようになってしまっていたのだから。私はすぐに行動を起こした。家を増築することにしたのだ。冒険者である私はそこで、今まで接した事のなかった建築というものについて学び、自ら設計図をひき、そうして新しい世界を作り上げたのだった。壁紙は使わなかった。かわりに自ら色を塗り、模様を描いた。既製品ではなく、自分の手で新しい世界を創造したのだ。

 それからも、何回か増築をした。私が一つの場所に留まるなどという事は、考えるだけでも恐ろしい。





 新築二年目。家を壊して、新しい家を建てる事にした。私は永遠の冒険者として、もっともっと新しいものを求めていくのだ。

 私は今回の新築にあたって、またひとつ画期的な哲学を考案した。この哲学によって建てられた我が新築の家は、新しい次元で更に更に新しさを求めていく私の精神を象徴する存在となるだろう。

 私の新しい哲学とはこうだ。「階段こそは、新しい世界へと道を切り開くよすが、新しい世界への真の扉である」

 私は古い家に多くの部屋を作り、多くの扉をつけた。しかしその中を巡っている限り、私は高まるという事がないのだ。同じレベルの中を、延々とめぐり巡るばかり。しかし階段を上がるという事は、一段上に拡がる事、また新しい次元の世界を探究していくという事、視界が新たに拡がるという事なのだ。だからといって扉をつけなかった訳ではない。部屋はまた多く作った。人間は同じレベル内での広がりを探究する事を軽視してはならない。いや、むしろ一つのレベルの広がりを極めていく中でこそ、新しいレベルへの扉は見い出されるのだ。だから当然、私の家には階段ホールなんてものはない。一階登ると、階段は途切れてしまう。下手をすれば半階しか登れないなんていう階段もある。登ってしまうと、それ以上うえに行く階段のない部屋もある。人生とはそう甘いものではないのだ。様々な障害と過ちがまっている。過ちかと思っても諦めなければ道が開けるという事だってあるから、私の家についても、行き止まりかと思ったら隠し階段があるなんていう部屋も、ひとつ作っておいた。

 階段を登れば、そこはアナザーワールド。





 増築に増築を繰り返した。新しい階段に、ドアをつけた。古い階段を取り外し、古いドアを封鎖した。あけると壁にぶつかるドアや、天井に触るためだけの階段も作った。改築工事は私の日課となった。もはや私ですら、家の全体像は把握できない。部屋の様子や家の構造が目まぐるしく変わり、記憶に頼って歩こうとすると道に迷うのだ。更に私の家は建て面積も広く、壁が多く耐重性能に優れるのをいい事に階も多くしてある。それを私が年がら年中改装して歩いているのだ。客が一人迷子になって、十日間我が家の出口を求めて彷徨い歩くという事件も起きた。ミネラル・ウォーターや食料の入った冷蔵庫が繁くあるから、大事には至らなかったが。以来我が家も客がめっきり減った。庭までしか人がこなくなった。もっとも庭の落とし穴式入り口から訊ねて来た客が二、三あったが。

 おかげで私も常に新鮮な気持ちでいる事が出来た。私の心はいつでもワクワクドキドキしていた。なんて豊かな人生なんだろう。自らの家の中で、こんなにも新鮮な気持ちを日夜味わう事ができるのだから。ともすれば、冷蔵庫に行き当たらずに、飢えや乾きと戦わなくてはならない事もある。このドアのむこうには何があるのだろう、この階段の上にはどんな世界が拡がっているのだろう。私の心はいつでも少年のそれのようにいきいきとしていた。そして私の心のエネルギーと内なる世界の広がりを映し出す私の家は空へ、また地下へと拡がっていった。まるで成長する樹のように。





 絶望を感じた。

 できる限りの増築を行ってきた。幾度もの改築を重ねてきた。しかしそれもマンネリになってしまった。まるであの開けると壁しかないドアのようだ。新鮮さを失った私など、生ける屍も同然。新鮮さ無しには、私は生きてはゆけないのだ。新鮮な心さえあれば、私は生きていける。心の若さを保たなければ。このままでは、私は死んでしまう。

 ある日、久々にいくつかある玄関口の一つに行き当たった。玄関口の冷蔵庫には、幾らか日持ちのする食料や水が、また倉庫には保存食が配達してあった。銀行の口座から代金を落として届けてくれるように手配してあるのだ。同時に、改築の資材も。私は玄関から出る必要はなかった。が、久々に玄関を出た。家の敷地を出て、外の世界を歩いていった。

 高いビルの非常階段。昔のいつか、この階段を登ったのだった。そして改築を思い立った。階段こそは新しい世界へとつながる小道なのだという考えが、あの時生れた。

 非常階段を登る。一段、また一段と。ビルの非常階段は実に高い。そして一続きになっている。階段を上り詰めた。街を見渡すと、あの時と同じ街並が拡がっている。空を見上げると、あの時と同じ空が拡がっている。

 あの時も、今と同じように、ここまできた。そして階段の意義に思い至ったのだった。あれから長い事、ひたすら階段を取り付け、ドアを増やし、また家の構造を変え続けた。少しも弛まず、新しい世界を求め続けてきた。

 しかし、しかしだ!それでどうなった?あの空を見ろ!あの空に届きでもしたか!いや、未だあのちっぽけな家の中でごそごそしているにすぎない。あの家。ここから見えるあの家。他の家とくらべればはるかに大きい。外見的な広さ以上に、私が改築を続けるあの家は広い。時間的な広がりにおいて、あの家は改築によって広さを持つのだ。有限の空間の中にありながら、時間的広がりの中に、その中で姿を変え、別な空間へと変遷を遂げる事によって、無限の空間的広がりを持っているのだ。

 時間の中に持つ広がり。そうだ!変化を恐れなければ、時間の中でいくらでも新しくなっていける。そう思った瞬間、あの時は見いだせなかった新しいステップが見えてきた。このビルの非常階段には、まだ私の踏んでいないステップがあったのだ!自己同一性?そんなものを云々しているから、心が年老いていくのだ。そして自然の力で新しく更新してもらうのを、不機嫌に、あるいは恐れすら抱えて、受動的に待つのだ。私の心は未だ自由であり続けている。私は自らの心を、常に若々しく、何者にも捕われないままに保とうと努力してきた。私は世間の人間の多くがそうであるように、現在に縛られて変化を恐れたりはしない。階段を登ればそこはアナザーワールド。さあ、今こそこの階段の最上段から、更なる新しいステップを踏み出そう。



 ・・・・・この、大空へ。