*1) 北アイルランドを除くアイルランドは1922にアイルランド自由国として自治を獲得、
1937年、国名を「エール」と改め、自らを独立国家と位置づけた。すなわちヒーニーが
生まれたときには、既にアイルランド独立運動はひとつの節目を過ぎていた。アイルランド
共和国として完全に独立するのは1949年のことである。
(「アイルランド共和国」上野格「アイルランド自由国」堀越智「アイルランド問題」堀越智
より。いずれも『スーパーニッポニカ2003DVD』小学館 2003)

なお行政区分は米田巌氏によれば「アントリム、アーマ、ロンドンデリー、ダウン、
ファーマナ、タイロン(ティローン)の6県と、ベルファスト、ロンドンデリーの2特別市
(カウンティ・バラ)からなる」(「北アイルランド」米田巌『スーパーニッポニカ2003
DVD』小学館 2003)が、同氏は同DVD別項でロンドンデリー特別市について「1633
年以前はデリーDerryとよばれ、1984年ふたたび旧称に復した」と述べている。
県とはCountyのことであるが、Co.Londonderryの名称がどのような変遷を辿っているか、
いないかについては定かでないものの、こちらは現在もLondonderryと称しているらしい。
ヒーニーの生まれた頃には、その生地はCo.Londonderryと呼ばれる県に属していたのであろう。

*2) 「荘園」はTounlandの訳語である。Tamniarnはネー湖(Lough Neagh)の北端、
Co.Antrimとの県境近くにあるらしい。同Tounlandと境を接する二つのTounlandは
ヒーニーの詩Anahorishに歌われた土地らしい(『ウォルコットとヒーニー ノーベル賞
詩人を読む』徳永暢三 彩流社1998 より)が、どのTounlandを指すのか、定かでない。

*3) 『ウォルコットとヒーニー ノーベル賞詩人を読む』にヒーニーのエッセイ
『ベルファースト』にある言葉として「モスバーンはカースルドーソンとトゥーム
という二つの村の間にある。私はイングランドの影響が著しい場所と、生地での経験
の誘惑の間に、「領主直営地」と「ボッグ」の間に、象徴的に置かれた」とあるが、
恐らく「カースルドーソンとトゥーム」の両者が、その後の文に登場する二項対立
「イングランドの影響が著しい場所と、生地での経験の誘惑」や「領主直営地とボッグ」
に対応しているものと思われるものの、説明不足でよく分からない。いずれにせよ、
この土地もヒーニーのイギリス・アイルランド両文化に跨る性格と対応するものとして
考えることができるらしい。なおKastledawsonはLough Neagh北端から流れ出る
バン川(Lower Bann)の西側にあり、Toomeは東側、Co.Antrim内にある。

*4) 「His father owned and worked a small farm of some fifty acres in
County Derry in Northern Ireland, but the father's real commitment was
to cattle-dealing. There was something very congenial to Patrick Heaney
about the cattle-dealer's way of life to which he was introduced by the
uncles who had cared for him after the early death of his own parents.」
「His father was notably sparing of talk and his mother notably ready to
speak out, a circumstance which Seamus Heaney believes to have been
fundamental to the "quarrel with himself" out of which his poetry arises.」
(ともに1995年ノーベル文学賞ページより)この叔父(ヒーニーの大叔父)はヒーニー
の詩にも登場するが、父が負って立つ古きアイルランドの象徴のように描かれている。

*5) 1995年ノーベル文学賞ホームページに「As a very young child, he watched
American soldiers on manoeuvres in the local fields, in preparation for
the Normandy invasion of 1944. They were stationed at an aerodrome which
had been built a mile or so from his home and once again Heaney has taken
this image of himself as a consciousness poised between "history and ignorance"
as representative of the nature of his poetic life and development.」とある。
意味の分かりにくい表現だが、要するに歴史の傍観者・非主体者としての自分の最初の姿
を、これから死地に向かう兵士達を、ただ見送るだけであった幼い日の自分に見出して
いるということか。

*6) Michigan State Universityホームページより。ヒーニーの詩集『Station Island』
に関する語注で「Barney (Bernard) Murphy, H's Latin teacher at Anahorish
Elementary School from 1945-51(age 6-12)」とある。ラテン語教師がいる以上、
ラテン語を学んでいたのであろう。

*7) 『シェーマス・ヒーニー ナチュラリストのパラダイム』小野正和・清水重夫 書肆山田1993

*8) 1995年ノーベル文学賞ページより

*9) MossbawnとThe Woodがどれほど離れているかつまびらかでない。弟の死を契機に
転居していることからは、弟のことを思い出さないよう遠隔地へ転居したかとも思われる
が、『シェイマス・ヒーニー全詩集1966〜1991』所収の略年譜にある「同教区の反対側」
という記述からは、そう離れた場所ではないような印象を受ける。

*10) 『シェイマス・ヒーニー全詩集1966〜1991』P741"Mid Term Break"の註にある表現。

*11) 「国外に去って文筆活動を行った作家の系譜としてオスカー・ワイルド、G・B・ショー
(1925年ノーベル文学賞受賞)、ジェームズ・ジョイスなどがいる。エグザイルすなわち亡命
あるいは異郷流浪はアイルランド文学伝統の重要な主題の一つであるが、これら現代の国外離脱
者たちの存在はアイルランド文学の複雑なありようを示す注目すべき特徴となっている。」
(大澤正佳著「アイルランド文学−国外離脱者たち」『スーパーニッポニカ2003DVD』小学館 2003)

*12) 「At St. Columb's College, Heaney was taught Latin and Irish, and these languages,
together with the Anglo-Saxon which he would study while a student of Queen's
University, Belfast, were determining factors in many of the developments and
retrenchments which have marked his progress as a poet.」(1995年ノーベル文学賞ページより)
しかし、ギリシャ語・ギリシャ文学も忘れられない要素のひとつとは言えないのだろうか?

*13) 清水重夫著『シェーマス・ヒーニー ナチュラリストのパラダイム』
「シェーマス・ヒーニー考」によれば「トップの成績を修め」たとある。

*14) 清水重夫著『シェーマス・ヒーニー ナチュラリストのパラダイム』「シェーマス・ヒーニー考」
によれば1963年に職を奉じた聖ジョセフ教育大学でジェイムズ・シモンズ、マイケル・ロングリー、
スチュアート・パーカー、デレック・マハンら「仲間(当時は単に"The Group"と呼ばれ、後に"School"
ないしは"Northern School"と呼ばれるようになった集団)」と出会ったことで、それまで特に興味の
なかった詩に目覚めたという事になる。しかし『ウォルコットとヒーニー ノーベル賞詩人を読む』
「後記──エピソードを交えて」所収のヒーニー略伝は1962年、「ベルファースト・テレグラフ」誌
に発表した「トラクターズ」が最初の詩篇であるとする。また『シェイマス・ヒーニー全詩集1966〜
1991』所収の略年譜は1961年には既に詩作を開始、大学の雑誌や地方の新聞に掲載しており、
「仲間」との出会いは1962年のことであると述べる。そもそも、この頃までヒーニー(英文学を専攻
している)が詩に興味を持っていなかったとする清水重夫の言葉には納得できないものを感じる。ただし
詩を読解することには興味があっても、創作には興味がなかったという考え方も可能であるが、その辺、
詩人の内的動機にまで踏み込むことは、詩人本人の言葉を詳しく調べなければ分からないことが多い。
要するにこの頃から本格的な活動が始まったという事になるのだが、その辺りの詳しい事情が分からない
ことは、詩人の創作活動そのものに焦点を当てた本レポートとしては、何とも苦しい。
 なお1995年ノーベル文学賞ページに掲載されたBiographyは、後の妻Marie Devlinとの出会いこそが
詩作の初めならんとする説を掲げている。(Heaney's beginnings as a poet coincided with his
meeting the woman whom he was to marry and who was to be the mother of his three children.)
 『ウォルコットとヒーニー ノーベル賞詩人を読む』「後記──エピソードを交えて」には、1997年
11月10日に早稲田大学で開催された「文学フォーラム東京セッション」においてヒーニーが聴衆からの
「そもそもどうして創作を始めたのか」という質問に対し「自分は何もしていないという気持ち('the
sense of nothingness')があって、それを償いたいと思ったのが創作の動機である、と答えた」とある
が、これとて創作を始めた理由ではあっても、創作を始めた切っ掛けではない。いわば科学反応の基質で
あって触媒ではない。基質があっても触媒がなければ反応は始まらない道理である。ただし、この言葉は
それはそれで本レポートの興味には沿っている。『ウォルコットとヒーニー ノーベル賞詩人を読む』は、
この言葉に対し「面白かった」としかコメントしていないが、教養とは無縁の農家に長男として生まれ
ながら、首都の大学で主席の成績を修めるほどの頭脳をもった青年が、家業を継ぐ気にはなれず、かと
いって専門が文学では他の職に就くわけにもいかず、というモラトリアムを経験したことを示唆する発言
ではないか、とも読める。ただし日本とヨーロッパにおける大学教授・詩人といった職業のもつイメージ
の差(日本で研究者というと、しばしば「何をしているのか分からない」と暢気に遊んでいるかのように
言われかねないが、ヨーロッパではもう少し尊敬を払われる職、少なくとも家業を継がなかったからと
言って咎められることのない職かも知れない)や、ヒーニーに求められていたもう一つの活動、すなわち
政治活動を考慮(何もしていないというのは家業のことではなく、アイルランド人として求められる
政治的行動の事かも知れない)すれば、即断はできないが。

*15) 清水重夫著『シェーマス・ヒーニー ナチュラリストのパラダイム』「シェーマス・ヒーニー考」
には「ホブズボウムがクイーンズ大学に去った後、ヒーニーはその中心となって「仲間」を支え」たと
あり、また1995年ノーベル文学賞ページ掲載の「Biography」は、1966年にはホブズボウムがベル
ファストを去った(クイーンズ大学はベルファストにある)と述べている。そして複数の文献が、
ヒーニー自身がホブズボウムの後を追うようにして1966年にクイーンズ大学に奉職したと述べており、
するとホブズボウムがクイーンズ大学に去ったのは、クイーンズ大学で少なくとも一年は仕事に就くため
に1965年以前でなければならず、聖トマス中等学校時代の1962年、ないしは講師として聖ジョセフ
教育大学に就任した1963年、「仲間」に新参者として加わってから、長くて二、三年のうちには、
ジェイムズ・シモンズ、マイケル・ロングリー、スチュアート・パーカー、デレック・マハンらの中心と
なるだけの頭角を現していたと考えられる。あるいは温和な性格が人の輪の中心となるべきものを持って
いたとも考えられるが。
 また、1995年ノーベル文学賞ページはこのグループのメンバーとヒーニーとでは、スタイルの点で、
また気性の点で異なる(Heaney is stylistically and temperamentally different from such
writers as Michael Longley and Derek Mahon (his contemporaries), and Paul Muldoon,
Medbh McGuckian and Ciaran Carson (members of a younger Northern Irish generation))と
あるが、これが何を意味するのか、いまいち良く分からない。
 なお、同ページ掲載の「Biography」には、クイーンズ大学でもヒーニーがホブズボウムの後釜として
活躍した様子が述べられている。(While a young lecturer at Queen's University, he was active
in the publication of pamphlets of poetry by the rising generation and took over the running
of an influential poetry workshop which had been established there by the English poet,
Philip Hobsbaum, when Hobsbaum left Belfast in 1966.)

*16) Marie Devlinは文学者としてアイルランド神話の翻訳などの仕事もしている。大家族の
出身だが、その中には文学者、芸術家も多かった。学問的にも詩作の上でも、また私生活・家庭
の切り周りにおいてもヒーニーを支える存在となっているようである。
(1995年ノーベル文学賞ページより)

*17) ヒーニーには、P.B.Shellyや中原中也にあったような子供に先立たれる経験もなく、
キーツに代表されるような悲劇の主人公としての詩人といったイメージも微塵もない。弟や
両親の死は詩の題材にもなっているが、家族関係に関しては概して幸福・円満なようである。

*18) 長男Michaelが生まれた1966年にグレゴリー新人賞とジェフリー・フェイバー賞、
次男Christopherが生まれた1968年にはサマセット・モーム文学賞、長女キャサリン・アン
誕生の1973年にはデニス・デヴリン賞とアメリカ・アイルランド財団賞を受賞している。
『シェイマス・ヒーニー全詩集1966〜1991』所収の略年譜によれば、35歳までに受賞した
賞は、すべて子供が産まれた年にもたらされている。ただの偶然か、賞を取るテンポと子供が
生まれるテンポがたまたま一致したか、詩の生産が好調なときには子孫の再生産も好調なのか、
とかく家庭関係に関しては「果報者」というイメージが強い。

*19) デリーの公民権デモにイギリス特殊部隊SASが発砲し、十名を超える市民が死亡した
事件。犠牲者数を清水重夫著『シェーマス・ヒーニー ナチュラリストのパラダイム』
「シェーマス・ヒーニー考」は13名とするが、堀越智著『スーパーニッポニカ2003DVD』
「北アイルランド紛争」は14名としており、はっきりしない。これを切っ掛けに、カトリック
系住民の流れは公民権運動からIRA指導の武装闘争へと決定的に転換した。

*20) もっとも、北アイルランド社会の緊張はこれ以前から既に高まっていたのであり、血の
日曜日事件は死者が出たという点でショッキングなものではあれ、突発的な事件というよりは、
高まった緊張の泡がはじけた事件、ある連続の上に位置づけられる事件というべきである。
すなわち北アイルランド社会は1960年代から政治的緊張もゆるみはじめ、IRAはほとんど
活動を停止、カトリック・プロテスタント両派の社会的格差是正を求める公民権運動がプロテス
タント穏健派からも支持を受けて広まっていたが、これに危機感を強めたプロテスタント強硬派
は逆に政治活動を活発化。直接行動もとって公民権運動への攻撃も激化し、1969年1月には
バーントレット橋での公民権デモへのプロテスタントの攻撃を警察が見過ごす事件(バーント
レット事件)が発生、その後17世紀頃のプロテスタント軍によるカトリック勢力の駆逐を祝う
祭典(19世紀に始まったもの)を切っ掛けに「内戦か?」と報道されるほどの激しい衝突が
始まっており、事態の沈静化のために投入されたイギリス軍がカトリック勢力にばかり鎮圧
行動をとったため、IRAも血の日曜日事件以前から活動を再開していた。

*21) 清水重夫著『シェーマス・ヒーニー ナチュラリストのパラダイム』「シェーマス・
ヒーニー考」は、この移住を血の日曜日事件にショックを受けてとった一連の行動のひとつと
して書いており、また『スーパーニッポニカ2003DVD』「ヒーニー」(著者の署名なく執筆
者不明)の項も「1972年1月の「血の日曜日事件」に衝撃を受け、アイルランド共和国に移住」
と書いているが、『シェイマス・ヒーニー全詩集1966〜1991』所収の略年譜には、血の日曜日
事件の前年、1971年には、既にWicklow県Glanmoreに移住していたとあり、定かでない。
しかし(*18)で述べたように、北アイルランド社会の緊張は血の日曜日事件以前から相当に
高まっており、いずれにせよ政治的圧力を逃れるための移住であったことには変わりあるまい。

*22) 小野正和著『シェーマス・ヒーニー ナチュラリストのパラダイム』「シェーマス・ヒーニー
の島」によれば、スウィーニー(スウィブネ)は紀元前七世紀に実在したアルスターの王の名らしい。
彼を巡る説話群が紀元九世紀頃に『Buile Suibhne』として纏められていた。20世紀になってから、
複数の詩人・研究者が部分的な訳を試みた。内容がシェイクスピア『リア王』と似ているようだが、
福田恆存著「リア王 解題」(新潮文庫『リア王』所収)に挙げられた、リア王に影響を与えたと
思われる物語七点の中には含まれない。逆にヒーニーの『Buile Suibhne』解釈がシェイクスピア版
リア王の影響を受けていた可能性は否定できないであろうが、これも確実に証明することは難しい。
いずれにせよ、当時アイルランド文人にとって重要な説話であり、またヒーニーにとっても重要な
意味を持ったようである。

*23) 当時の暮らしぶりについては、清水重夫著『シェーマス・ヒーニー ナチュラリストの
パラダイム』「シェーマス・ヒーニー考」に則り、それをややぼかした書き方をした(同書の
書き方は「専らアイルランド語の作品"Buile Suibhune"の翻訳をしたり、イェーツ・マンデル
ストロム・ダンテなどの研究に没頭する。しかし一方で、北アイルランドでは紛争が続いて
おり……」と、北アイルランドの政治状況に対する態度を決めかねて、もっぱら机に向かって
いた、といった書き方である)が、1995年ノーベル文学賞ページは、1973年から1978年に
かけて五年間、アイルランド共和国芸術会議(The Arts Council in the Republic of Ireland)
で働いており、その間、数多くの作詩コンテストや文学協議会の審査員や講師を務め、Sligoの
W.B.Yeats国際夏期研究会年次会(the annual W.B. Yeats International Summer School
in Sligo)と特別な関係を築き上げたと述べている。北アイルランドの政治状況に対する態度を
決めかねて引きこもっている、というイメージからは懸け離れた社交性・活躍ぶりである。清水
重夫の描くイメージには、やや無理があるかも知れない。

*24) 清水重夫著『シェーマス・ヒーニー ナチュラリストのパラダイム』「シェーマス・
ヒーニー考」による。『シェイマス・ヒーニー全詩集1966〜1991』所収略年譜は、1982年
の項に、ただ「この年から一学期、五年間の契約でアメリカ、ハーバード大学客員教授となる」
とのみ書かれている。

*25) フィールド・デイ劇団は劇作家Brian Frielと役者のStephen Reaの実験的コラボレー
ションの場として1980年頃に始まり、当初から政治的事柄に関心を持って様々な活動を展開
していた。また創立当初からヒーニーを初めとする、主に北アイルランドの文人に声をかけて
いた。ヒーニーの「フィールド・デイの出版運動」とは、政治的内容を論じたパンフレットを
出版する動きで、所謂アイルランド問題の本質を考える、といった趣の内容らしい。
(Emory Universityホームページより)

2.

*26) 1995年ノーベル文学賞ページが「1979年発行」と誤った表記をしている模様である。
『シェイマス・ヒーニー全詩集1966〜1991』『シェーマス・ヒーニー ナチュラリストの
パラダイム』ともに1975と表記。1995年ノーベル文学賞ページも別の箇所では1975年と
書いている事から、また他の年号と照らし合わせても、1975が正しいのであろうと考えられる。

*27) 年号は『シェイマス・ヒーニー全詩集1966〜1991』より。1995年ノーベル文学賞
ページは1984年発行と表記している。また誤記か。

*28) この項目、「The First Gloss」に関する一部の見解を除いて、『シェイマス・ヒーニー
全詩集1966〜1991』および『シェーマス・ヒーニー ナチュラリストのパラダイム』を纏めた
ものであり、本レポートの独創ではない。

*29) 年号は『シェイマス・ヒーニー全詩集1966〜1991』より。1995年ノーベル文学賞ページ
は1991年発行と表記している。誤記か。

3.

*23) 木野氏の講義レジュメで示唆された考え。なお木野氏は「the trapped sky」を「穴の中
から見た、丸く切り取られた空への視界」と解釈しているが、覗き込んだ井戸の底に映っている
空と解釈すべきであろう。空が切り取られるほど深い井戸の底にいるのは、井戸に落ちたドジな
子供だけである、というのも一つの理由だが、より文学的な理由として、本作における井戸の底
は、『Door into the Dark』所収の『Bogland』に描かれた、大西洋につながる底なしの沼同様、
底知れぬ、侵入しがたいものとしておいた方が、作品としての迫力が出るということもある。
詩の中に主語としてyouが使われる箇所は、読者に強い印象を与えたい場所であると考えられる
が、いずれも井戸の吸い込まれそうな深みを強調する文に用いられている。そうまでして井戸の
底を禁域化した挙げ句、詩人自身がその禁を破ったのでは話にならない。詩人は井戸の底に入る
ことなど出来ないのである。

*31) 詩『Death of a Naturalist』の後半部も臭いの描写から始まり、その臭いが読者を包み
込んで一気に作中世界に拉し去る仕掛けになっている。概して嗅覚や触覚は視覚や聴覚と比べて
生々しく、読者を引き込む力に長けているのではないか。

*32) 第一部註14参照

*33) ヒーニーはフランシス・ベーコンの著作をもじった詩『An Advancement of Learning』
でネズミへの恐怖を克服したくだりを描いているが、こちらのネズミの描写はどちらかというと
自然科学的な眼差しである。

*34) 「ヴィスコンティはダンテ『神曲』の地獄の幻視を文字通りの実体験と見なし、この「不気味
な男」ダンテが駆使できるに違いないと信じた「地獄のわざ」を実際に魔術として利用しようとした。
彼は敵対する教皇ヨハネス二十二世の銀でできた彫像を謎めいた仕方で薫蒸する魔術によって、この
教皇を亡き者にしようと望んだ」(『記憶の迷宮 アビ・ヴァールブルク』田中純 青土社2001)
「ヴィスコンティ」とはミラノ総督マッテオ・ヴィスコンティ1世。ヨハネス22世は14世紀前半の教皇。

*35) 『風姿花伝』において世阿弥は観阿弥の言葉として「ぶるな、らしゅうせよ」と述べている。
敢えてアイルランド人ぶったヒーニーの詩は、風姿花伝の美学からすると、非常にいやらしく、
あるいはパロディ的・道化的にも見える。

*36) 日本語で「知る」は「白」と同語源で、(視覚的に)明白にすることと関係がある。古代の王は
しばしば高い山に登り、「くにみ」と呼ばれる儀式を行った。これは王が国土を見渡し、これを知る
ことで支配を確実にする呪術行為であった。国家を統治することを「しろしめす」と言う。

4.

*37) 内田隆三著『国土論』第三部「零の修辞学」第三章「ニュータウンの光景」

参考文献

Web資料