では、ヒーニーについて何が分かったのであろうか。ヒーニーから詩作に関する
どのようなヒントが得られたのであろうか。
「ヒーニーはアイルランドの伝統的農村で育ち、故郷の自然を描いた」などと言わ
れると、「そうか、生まれつき自然に囲まれていないと、あの五感を駆使した詩は
書けないのか」などと安易な結論を導いてしまいそうになるが、それは恐らく間違
いである。ヒーニーが幼少期を自然の中で過ごした事で五感が研ぎ澄まされた可能
性はある。しかし、結局ヒーニーは自然を素直に描いているわけではなく、その描
写はヨーロッパ文化の引用によって浸され、彼の頭脳の中である程度(場合によっ
ては相当程度)組み替えられて出力されている。すなわち、どれだけ鋭く外部を観
察できるかに限らず、観察した外部をどこまで巧みに加工できるかで競うこともで
きるのである。そう考えると、外部が加工可能なように、自分の感覚も加工可能で
あるかも知れない。読者を詩の世界に引きずり込みたいときに嗅覚や触覚を利用す
ることなど、いくらでも真似のできる技術である。なにも子供の頃アスファルトで
固められた地面の上ばかりを走り回っていたから使えないというものではない。
また、ヒーニーが土を描くのがアイルランド人としての戦略的決定であれば、土に
必然的に付随する臭いと触覚も戦略的に強調されたものであった。では私は日本の
東京周縁で育った者として、どのような戦略がとれるか。ヒーニーの真似をして泥
をいじり回し、その臭いをかいだのでは、ヒーニーの戦略に嵌った愚者の猿真似で
あるとも考えられる。
内田隆三氏によれば、東京のペリフェリに存在する「快適の政治学」は汚れを摘発
し、臭いや質感(触覚)を消去して人間・物・空間の全てをフィギュア化してゆく。
(*36)すると東京という場を舞台としてヒーニーに倣った戦略的表現を模索する
なら、むしろ臭いや触覚は、それと分かる形で、わざとらしく消去せねばならない。
詩の世界に引き込む嗅覚の代わりに、詩の世界に入り込みきれない、奇妙な齟齬感
を売りにせねばならない。
闇と詩人の性格に関係があるかと問題提起をしたが、詩人が掲げる「闇」が、詩人
が運命として仕方なく掲げた物ではなく、意図的に選択して掲げた物であるとした
ら、あるいは少なくとも意図的に強調することを意識的に選択した結果であるとし
たら、詩人の性格と闇とを直接結びつける線は弱くならざるを得ない。しかし、自
分の姿勢を意識的に選択する老獪とも言うべき賢さとは関係があるかも知れない。
要するにロマン派の詩人は若かったのであり、ヒーニーは頭が切れた。些かつまら
ない結論だが、この方が少しは納得できる説明のようである。
また教育とヒーニーの関係だが、一年間しか務めずに方向転換したあたり、やはり
見込み違いだったのではないかとの疑いが晴れない。
そもそもヒーニーは天真爛漫ないたずらっ子などではなく、相当な秀才である点を
考慮すべきである。アイルランド農家に生まれ、故郷を愛してはいるが、大人とし
て故郷の生活に参与することはついに無かった。泥炭堀の名人であった祖父、ジャ
ガイモ掘りがうまかった父とは異なり、シェイマス・ヒーニーは教養を身に付け、
大学卒業時点でイギリスの名門校に進学することを勧められた。いわばシェイマス・
ヒーニーは父祖とは異人種である。そして父祖の生き方はやがて古い物となり廃れ
てゆき、羽振りが良いのは息子の方である。
詩集『Death of a Naturalist』に繰り返し現れる祖先との訣別や、ヒーニーが第
一詩集出版の糸口を掴んだときの喜びようを考えると、ヒーニーはアイルランド農
家の子にはそぐわなかったのではないだろうかという気がしてくる。シェイマス・
ヒーニーと彼の父祖達の間に緊張が生じる理由は無数にある。そうして生じた緊張
に対し、自分の立ち位置を確認するために、詩人は執拗にマニフェストをくり返し、
その詩集が出版されることに大きな喜びを表明せねばならなかったのではないか。
第一詩集のマニフェストが誰に対するマニフェストかという問題を考える必要があ
るかも知れない。『North』以降の詩人であれば、社会に対して自分の政治的立場
を宣言したと捉えることが自然である。しかし、第二部の『Death of a Naturalist』
の解説で述べたとおり、この段階では詩人は北アイルランド紛争の激化を経験して
おらず、また同詩集において明らかにアイルランドの受難を題材にした二つの詩
『At a Potato Digging』『For the Commander of the 'Eliza'』には詩人の
道具がペンであるといった類の宣言は現れず、むしろ父祖の仕事である農牧や、
彼の少年時代の思い出を語るとき、それとの訣別を語る形でペンが現れることが
多い。つまり、第一詩集におけるマニフェストは、父祖に対するマニフェストで
はなかったか。
教育者になろうとしたのも、そんな父祖との緊張の一つの帰結ではなかったか。
すなわち12歳の時点(日本人の子供が中学受験をする時期である)で奨学金を得
て水準の高い学校に入学するほどの頭脳を持っていた詩人は、その頭脳を小さい
うちから持て余し、また周囲も頭より体力を要求する農家として、神童ヒーニー
を持て余したのではないか。両親や教師達の教育はヒーニーを満足させず、その
記憶がヒーニーをして、自分なら自分を育てた両親や教師達よりも、より良い教
育をできるという感覚を抱かせたのではないか。しかし、このような天才の感覚
は、子供必ずしも天才ならずという現実にぶつかって挫折する事が多いのである。
私には、どうもヒーニーの宣言はうるさすぎるような気がしてならない。自信の
ある宣言は一回で充分なはずなのに、ヒーニーは同じ宣言をしつこく繰り返して
いるように見える。ここから、確言はできないが、ヒーニーが幼い頃に繰り返し
否定された経験があるのではないかという想像が、どうしても頭をもたげる。本
レポートでは、その原因を天才故の周囲との確執に求めて説明を試みた。
一方、田舎の神童として育ち、中央でも優秀ぶりを発揮し続けたヒーニーの自信
は、ヨーロッパ文明の前にも屈することを拒否した。しつこく自分の立場を宣言
せずにはいられない癖と、アイルランド人としてのマニフェストが重なったとき、
優れてポストコロニアルな詩人が誕生した。このように、反抗の詩人ヒーニーと
いう読み方も可能かも知れない。