まずは拙訳を掲載する。講義レジュメに掲載したものだが、講義時に
紹介された木野氏の訳やディスカッションをふまえ、多少の改定を施した。
(原文はこちら)
私だけの詩想の源泉
子供のころ、私はバケツと手動巻き上げ機のついた古いポンプや
井戸が大好きでしょうがなかった。
暗い穴や切り取られた空や
水草やカビや湿ったコケの臭いが好きだった。
煉瓦敷きの庭にある、蓋板が腐った井戸。
ロープの先についたまま落下したバケツが
深みのある音をたてて水面を打つのを私は味わった。
井戸はひどく深い。何かが反射するのなど見えやしない。
乾いた石造りの溝に隠れた浅い井戸は
水槽のように多くの生物を育てている。
やわらかい腐葉土から長い根を引き抜くと
底に白い顔が浮かび上がった。
ある井戸にはやまびこがいて、叫んだ言葉を
澄んだ新しい音色に乗せて返しに来る。
またある井戸は恐ろしいものだった。シダやジギタリスの中から
ドブネズミが飛び出し、水面上の私の顔を切り裂いたものだ。
今となっては、草の根を引っ張り出してみたり、泥をいじってみたり、
何処ぞの泉で大きな目のナルキッサスを見つめたりすることは、
卒業していて然るべき事だ。私は詩を詠む。
私自身を見つめるために。そして闇を木霊させるため。
五聯各四行。各聯とも、やや崩れた「ABAB」という単純な構造の脚韻を踏む。
内容と呼応させたものと考えることもできるが、ヒーニーは他の詩でも厳密な韻は
あまり用いておらず、内容との呼応を見るのは深読みかも知れない。
内容についてだが、第一聯から第四聯まで子供の頃の悪戯を描き、第五聯で詩人の
マニフェストが述べられる。この第五聯は、やや唐突な感じを受ける。
表現に関して。この詩は五感を総動員しており、少年時代の記憶を描いたもので
あり、闇を愛でる姿勢が(最後の宣言の中にも)現れている。つまり本レポートの
テーマ設定理由のうち、詩の内容に関する3点は全て網羅している。この3点につ
いて詳細に論じよう。
(1) 五感
視覚を特に動員している箇所として、第一聯の「the dark drop, the trapped sky」
が「暗/明」の対比を為している(*30)他、第二連の「you saw no reflection
in it」第三聯の「a white face」第四聯の「a rat slapped across my reflection」
第五連の「To stare, big-eyed Narcissus」と、各聯に恐怖を伴う鮮烈な視覚イメージ
を喚起する表現が並んでいる。誰でも情景を描かせれば、まずは視覚的に描くもので、
視覚の使用自体はありふれた事だが、ここまで強烈に視覚を使いこなすあたりはさすが
と言えよう。
聴覚については第二聯および第四聯の前半が主題としている(共に薄暗い井戸に満ちる
音を澄んだ様子に美化して描いており、第五聯の静的な世界に響く「echoing」や、本来
ガラス製の水槽を指す「aquarium」などと呼応し、不思議な透明感を醸し出している)
が、それ以外に単語単位で第四聯後半の「slap」や第五聯最後の「echoing」が音の連想
を掻き立てる。
嗅覚については第一聯の「the smells / Of waterweed, fungus and dark moss」が、
「臭い」という直截な言葉を使うことで読者を強力に詩の世界に引き込む役割を果たして
おり(*31)錆びた金属や腐った木、湿った土といったオブジェが読者の意識の下層に
臭いを滑り込ませてくる。
味覚はさすがにあまり働いていない(これは詩の性質上、仕方あるまい)が、嗅覚と並んで
素人が扱い損ねる触覚は用いられている。(これも詩の性質上、自然なことである。悪戯は
実際に指を使い、手を下してこそである)第二聯のバケツの操作もあるが、第三聯と第五聯
の草を引き抜く動作、土をいじる動作が特筆すべき使用例であろう。「soft mulch」も
引き抜かれる根本であって、直接触ったとは書かれていないが、質感を伝えている。そして
触覚の多用が、描かれているオブジェとの距離を縮め、読者に音や臭いをより近くで感じ
取らせる仕掛けになっている。
(2) 記憶
この詩は詩集『Death of a Naturalist』に収録された多くの詩と同様、子供の頃の記憶を
描いている。それが不肖私の興味を惹いたわけであるが、ここで着目したいのは、ヒーニー
が子供の頃の記憶を描いた時期は、ヒーニーが生地で実際にそれらの体験をした時から、
かなり離れているという事である。すなわちヒーニーは1951年にはデリーのSt. Columb's
Collegeの寮に入寮しており、これ以降どれくらいの頻度で実家に帰ったかつまびらかで
ないが、普段の生活はデリーで送るようになった。さらに1953年には実家も転居し、
1957年からはベルファストのクイーンズ大学に通い(当然家からは通えない)1965年
には、ついにCo.Tyrone出身のMarie Devlinと結婚していることから、本格的にベル
ファストに腰を落ち着けたと見て良いであろう。詩作をいつ頃から始めたかは必ずしも
明かでないが、一応1961年から63年頃とする説(*32)がある。するとヒーニーが日々
井戸を覗き込んでいた頃から本作品を書くまで、幾度もの環境の激変をくぐり抜け、10年
かそれ以上の時間が経っている。(記憶の描写が素晴らしいと褒められた拙作は、制作時
より2年ほど前の記憶を描いていたに過ぎない)
時間が経っていれば、記憶は曖昧になる。ヒーニーはアイルランドの自然を描いたと言うが、
決して対象を手に取り、観察して描いたわけではなく、一旦自分の脳を通した(それも記憶
としてかなりの年数を放置した)自然を描いている事になる。その脳を通過する過程が、
元になる自然観察力と並んで重要になるという事である。
ヒーニーは観察した自然に、学びによって(体験によってではなく)得た知識を絡め、
最終的な作品として出力している。すなわち本作では題名にヘリコン山、第五聯にナル
キッサスの引用があり、第三聯の「A white face」もナルキッサスと呼応しており、
従って第三聯にもナルキッサスが自らの姿に恋いこがれて死に、水仙に変じたというギ
リシャ神話の魔術が登場していることとなる。また第四聯後半の記述も、単にネズミが
現れて驚いたと言うのではなく、自分の顔が写り込んだ、その鏡像をネズミが乱したこと
が恐ろしかったと述べているのは、単なる子供のネズミ嫌い(*33)を表現するには余計
な表現であり、知識としてあとから得た黒魔術(*34)を意識した表現であることを示唆
しているのではないだろうか。また第三聯の「long roots」を引き抜く様は、その引き
抜くという行為の暴力性に加え、わざわざ「long」と形容詞がつき、根本が「soft mulch」
と強調されることで、引き抜いてはいけないものが余韻を残してずるずると引き出されて
しまう、引き抜いた途端に悲鳴を上げ、その悲鳴を聞いたものは発狂して死ぬというマン
ドラゲの伝説を彷彿とさせる。
学習によって得た教養が自然観察に優越している点として、本作の第三聯「a white face」
を挙げられよう。講義ディスカッションで示唆されたとおり、もしヒーニーが故郷の自然を
忠実に描こうとしたのであれば、ここは「black face on the trapped sky」でなければ
ならない。ヒーニーは記憶を裏切って井戸の底、地底に不健康な顔色のナルキッサスを出現
させることを優先したのである。
(3) 闇
ヒーニーの作品はしばしば強烈な土俗の臭いに溢れ、日常の隣に闇が巣くっている。
ヒーニーは学校でヨーロッパ古典に触れており、かつてのヨーロッパの理想美を知っ
ている。ギリシャを引用することは、その理想美の原点へと遡ることを意味する。
そうしておきながら、敢えてこれほどまで土俗を押し出すのは、明らかに戦略的意図
があっての行為である。また前節でヒーニーが時として記憶を裏切り教養を引用する
と述べたが、記憶が裏切られ、何かが引用されるとき、その引用は必ずオリジナルを
裏切る形で用いられ、アイルランドというトポスを主張する形になっている点、そし
てオリジナルを裏切った結果が、闇・土俗を指向する点に注目したい。すなわち本作
ではヘリコン山(ないしアガニッペの泉)は薄汚い井戸に変貌し、恐らく均整のとれ
た瑞々しい肉体の持ち主であったはずのナルキッサスは、薄暗い井戸の底に浮かび上
がる不健康な白い顔に変わる。
オリジナルを愚弄するかの如く、いかにもな手つきでずらされた引用と、半ばいやら
しいほどのわざとらしさでヒーニーの作品に陳列された土俗的な単語の数々(*35)
は、同じ戦略的意図、すなわちアイルランド性の主張のために選択された道具立てで
あると考えられる。
以上、『Personal Helicon』を詳細に読み解く中で、詩人のイメージがいくらか変化
してきたように思われる。すなわち「自然ときわめて親しい自然児」というイメージは
「描かれた自然から時間的・地理的に遠く離れたところで詩を書いている」という事実
によって疑問符が呈示され、詩人はアイルランドに属しているからアイルランドの土俗
を描くのが自然なのではなく、アイルランドに属しているのだというジェスチャーのた
めに意図的・戦略的に土俗を描いて見せているのではないかとの疑いが持たれた。
そもそも12歳で故郷を離れたヒーニーは、優秀なアイルランド人農民であったことは、
恐らく一度もない。ヒーニーは周囲の家族からすれば、家業を継がずに学問などという
よく分からない世界に身を投じたはぐれ者であり、アイルランド的なものが希薄で、
ヨーロッパ文化を身につけている点が目立つ人物なのではないか。ヒーニーがアイル
ランドを前面に押し出し得るとしたら、故郷のアイルランド人に対してではなく、ヨー
ロッパ人に対してである。こう考えれば、ヒーニーがアイルランドよりイギリスで先に
評価されたのは、故なき事ではないかも知れない。
『Personal Helicon』鑑賞の最後に、やや寄り道じみた話になるが、本作の詩集に占める
位置について見ておきたい。これは詩人の傾向を明らかにするヒントとなるかも知れない。
『Personal Helicon』の終わり方だが、詩集表題作『Death of a Naturalist』の終わり
方のざわつく感じとは対照的に、本作は子供時代の詩人を取り巻く魔術的な世界から、
それらを一応卒業し、静かに詩作に励む安定した世界へと収束する。これが詩集の最後に
置かれていることに、何らかの意味が見出せないであろうか。詩人は第一詩『Digging』
で読者の前に姿を現し、自己紹介と、これから読者に見せるものが何であるのかを解説する。
それから詩集を通じて読者の前でのパフォーマンスを終えた詩人は、本作『Personal
Helicon』の最後で、再び自分の仕事について述べ、いそいそと書斎へ戻ってゆく。
ここから勤勉な詩人の姿を読み取るだけでは不十分であろう。ヒーニーは読者のことを
忘れて書斎へ向かうのではない。読者の視線を背中にしっかり意識しながら書斎へ戻る
のである。寺山修司が「書を捨てよ」と言いつつ書斎に戻ったのではおかしい。同じよう
に、ヒーニーはいそいそと書斎に戻ることで、繰り返してきた彼の主張「私はペンを握る
のだ」という宣言を、無言の背中に大書しているのだ。
この詩の配置は、おそらくヒーニー自身の考案であろう。詩で語るのみならず、詩の配置
で語る方法論。これは詩の中にも見られる態度で、たとえば本作では井戸というもの単体
で語るのみならず、井戸とヘリコン山という二つのものの配置によって語っている。ここ
からヒーニーがメタレベルの思考を軽やかに使いこなす、頭の切れる人物であることが
浮き彫りになる。第八詩集のタイトル『Seeing Things』も、そんな詩人の傾向を支持
しているようにも見える。「見る」ことは知ることであり、賢い者の知による支配へと
通じる動詞である。(*36)