1.シェイマス・ヒーニーについて

 1939年4月13日、北アイルランドLondonderry県(*1)Tamniarn荘園(*2)
Mossbawn(*3)に、父Patrick、母Margaret Kathleenの間に、7人兄弟2人姉妹の
長男として生まれる。Co.Londonderryは産業革命以来の伝統産業であるリンネル製造
地域が集中しており、また衣料産業でも知られる。父は両親が早く死んだ後、伝統的な
アイルランド農牧民の叔父達に育てられ、牛の牧畜生活を愛する無口な人物だったよう
である。(*4)母方の親戚の多くはリンネル工場で働く。この点を指してヒーニーは自分
の生まれが"contains both the Ireland of the cattle-herding Gaelic past and the
Ulster of the Industrial Revolution"であると述べている。この生地については思い
入れがあるらしく、"country of the mind"と称しており、多くの詩の題材にもなって
いる。1944年にはノルマンディー上陸作戦のために米兵が家の近くに飛行場を設営、
駐屯したこともあり、この事は後のヒーニーにとって象徴的な出来事となったようで
ある。(*5)
 1945年(6歳)Anahorish Elementary Schoolに入学。ラテン語は一応、ここで
学びはじめたようである。(*6)1951年(12歳)奨学金を得てDerry市のSt. Columb's
Collegeに就学、ラテン語とアイルランド語(ゲール語)を学んだ。この寄宿制学校での
体験はヒーニーに強い印象を与えたらしく、多くの詩にも詠んでおり(*7)またこの時の
環境変化を"the earth of farm labour to the heaven of education."と表現している。(*8)
1953年、弟クリストファーの交通事故死を契機に、家族は同教区内のThe Woodに転居
している。(*9)この点について、幼い日々を過ごした土地から他の土地へ移り住んだと
聞けば、少年時代への訣別(*10)と短絡しそうになるが、弟の死や、それに伴う家族の
変化はともかくとして、地理的な移動としては、80km離れたロンドンデリーの寄宿制学校
に通うヒーニーにとって、長期の休みにしか帰らない家の移転は、どちらにせよ普段生活
しているのはデリーであるという意味では、あまり大きな環境変化とはならなかったのでは
ないかとも考えられる。しかし、この後ヒーニーは転居の度に遠隔地へと離れ、今までの
ところ"country of the mind"に再び住む機会はもっていない。これは家族の新居にたまに
しか帰らないヒーニーが、ついにこの新居を自分の帰るべき家として認知できなかったと
いう事を意味しているのかも知れない。すると現在までアイルランド島から完全に離れる
ことなく生きているヒーニーもまた、アイルランド文学の伝統であるエグザイル(*11)
を経験しているとも言えるのかも知れない。
 1957年(18歳)北アイルランドの首都Belfastのクイーンズ大学にて英語・英文学を
専攻。ヒーニーの作品は以上に挙げた三言語(ラテン・ゲール・アングロサクソン)に
おける文学の流れを汲んでいるとされる。(*12)1961年(22歳)優秀な成績(*13)
を収め卒業。オックスフォードへの進学を勧められるが、聖ジョセフ教育大学に転進し、
翌1962年(23歳)ベルファーストの州立聖トマス中等学校の英語教師の職を奉じ、さら
に翌1963年には聖ジョセフ教育大学講師となる。教員養成大学に転進したことは教育への
興味を感じさせるが、中等学校の英語教師職はたったの一年で辞めて大学講師(オックス
フォードに進学して英文学教授になったとしても、大差はなかったであろう)の職に就いて
いるところを見ると、中学教師は優等生ヒーニーにとって見込み違いの職だったのかも知れ
ない。
 詩人ヒーニーが活動を開始したのは、クイーンズ大学卒業の頃からである。(*14)
当時聖ジョセフ教育大学には、イギリス出身の詩人フィリップ・ホブズボウムを初めとして、
ジェイムズ・シモンズ、マイケル・ロングリー、スチュアート・パーカー、デレック・マハン
らが在籍しており、彼ら若手詩人集団との交流がヒーニーにとり大きな刺激となった。(*15)
 1965年、北アイルランドCo.Tyrone出身の中等学校教師Marie Devlin(*16)と結婚。
翌1966年、クイーンズ大学講師就任。近代英文学を講じた。同年第一子Michael誕生。二年
後に次男、更に五年後に長女が誕生している。(*17)また、第一子誕生と同じ1966年には
第一詩集『Death of a Naturalist』を刊行、グレゴリー新人賞とジェフリー・フェイバー賞
を受けている。以降、多くの賞を受賞する。(*18)
 1969年『Door into the Dark』出版。1970年、アメリカ、カリフォルニア大学バークレー
校客員教授。1973年にはアメリカ・アイルランド財団賞を受賞している。この頃から学者とし
て、また詩人として、大西洋を超えて名声を高めてきたと考えられよう。(なお学者としての
地歩が詩人としてのそれに先行する点も興味深い。ヒーニーが大人として活躍し始めたときも、
まずは学究であり、ついで詩人として立った)
 1972年1月30日、血の日曜日事件(*19)発生。ヒーニーは強い衝撃を受け(*20)
クイーンズ大学の職を辞し、前後して(*21)アイルランド共和国レンスター地方のWicklow県
Glanmoreの小屋に移住し詩作に専念しようとする。四年後の1976年には同地方のDublin県
Sandymountに移住したが、これは前1975年から始めたDublin市郊外Blackwoodにある
キャリスフォート師範学校(Carysfort Training College)での講師職のためであろう。
1976年、同校英文科長就任。
 アイルランド共和国に移ってからは、依然故郷に題をとりつつも、アイルランドの政治的
状況を色濃く反映した詩集『Wintering Out』出版の他、デンマークを訪れたり、アイルラ
ンド語で書かれた、発狂した王に関する説話『Buile Suibhne』の英訳(彷徨えるスウィー
ニー(*22))を行ったり、イェーツ・マンデルストロム(不詳)・ダンテらの研究を行っ
たりする。(*23)
 1975年、アイルランドの政治状況についての明確な意思表示ととれる詩集『North』出版。
文学上の一転機となる。続いて1975年、散文詩集『Stations』1979年、詩集『Field Work』
などを発表。1977年にはハーバード大学「居住詩人」就任、1981年にはキャリスフォートの
職を辞してハーバード大客員教授、1982年にはハーバード大上級客員講師(*24)・クイーンズ
大学名誉文学博士、1984年には顕職、ボイルストン修辞学・雄弁術教授(Boylston Professor
of Rhetoric and Oratory)に就任。1989年には五年間契約でオックスフォード大学詩学教授に
就任。いずれもある程度以上の時間をダブリンの自宅で過ごせる好条件の職であった。一方、
1984年に母が、1986年に父が他界する。ヒーニーの周囲に一世代上の死が押し寄せたこの時期、
政治問題の犠牲者としての死者ではなく、第一詩集に読まれた弟の死と同じような、自然の摂理に
基づく死者を扱う詩もあらわれる。
 1983年頃からは北アイルランドのフィールド・デイ劇団会長(Director of the Field Day
Theatre Company)という肩書きも持ち、演劇の上演に留まらず、出版などを通じて独自の政治
活動を展開しているようである。 (*25)95年ノーベル文学賞を受賞。欧米で高い評価を受け、
学者としての活動もなお盛んである。