*1) ドイツ文学研究者・里村和秋成蹊大学法学部教授の講義レジュメ(西洋文学(文化。2002)
里村)は古典主義とロマン主義の特色を対比して「規範・典型・節度/無限・神との一体化」
「社会秩序・保守/伝統否定・革新」「古典古代への憧憬/中世世界への憧憬」「現実的・社
会的/現実遊離・空想的・夢・内面的」「静的/動的・発展的」「普遍的・調和的/個性的・
独創的・想像力」「世界市民的/愛国的」「演劇的/小説的・メルヒェン・知性的(初期)・
カトリック的(後期)」とする。
(インターネット資料<http://user.net-web.ne.jp/doitsugo-online/satomura/>)
また加藤民男によれば「イギリスではシェークスピアを生んだ国柄から想像力の文学は特別な
運動も理論化もなく自然に開花し、シェリーとキーツにおいて叙情性と理想主義と、それにロ
マン主義の一性格たる社会不正の告発が斬新なイメージに表現されて至純な詩世界を結実させ、
バイロンは近代社会に反抗して不安と絶望にさいなまれる魂を激烈に描出してその生き方とも
どもまさしく反逆的ロマン主義の化身となった。」
(『スーパーニッポニカ2003DVD』「ロマン主義−イギリス」小学館2003)

*2) 同書には、シェリーが最終的に到達する点を予定された理想とし、シェリーの詩を単線的な
人格発展の段階を示すものと見なす嫌いがあることは指摘する必要があろう。たとえば75ページ
に見られる『アラスター』『エピサイキディオン』両篇の主人公の比較において、あたかもシェ
リーの比較的初期に書かれた『アラスター』の主人公が、後期に彼が重要視する「想像力」を、
既に理想として持っていたかの如くである。

*3) 『The poetical works of Percy Bysshe Shelley : with memoir, explanatory notes, &c』
メモワールより。この経験と後の学校生活との間から、反骨の精神が育まれたとメモワールは説明する。

*4) 上島建吉著『スーパーニッポニカ2003DVD』「シェリー」の項にある表現。「生来、
怪異なものにあこがれる気質が強く、当時流行のゴシック小説に想像力をはぐくまれた。加えて
イートン校在学中には自然科学に、オックスフォード大学に入ってからはプラトンなどの形而上
学に生涯の思想の源を培われた。一方、准男爵で国会議員の父に対する反発心から、既成の権威
や道徳を憎む気持ちが烈しく、1811年には『無神論の必然性』と題する小冊子を出版したため
に、大学を1年にして放校されるはめとなった。この夢想と反抗の性癖は、ゴドウィンの『政治
的正義』を読むようになってからしだいに対社会的な理想主義に熟していった。放校後まもなく
少女ハリエットと駆け落ち結婚したことは、その後2人で旧教徒解放運動などに手を染めたこと
とともに、こうした義侠的理想主義の一つの現れであった」小学館2003

*5) 『Zastrozzi』は1809年、『St. Irvyne』は1809〜1810。『The poetical works of
Percy Bysshe Shelley : with memoir, explanatory notes, &c』Prefaceはこれを「Boyish」
Memoirは「rather silly novels」とこき下ろしている。

*6) 『The poetical works of Percy Bysshe Shelley : with memoir, explanatory notes, &c』
メモワールによれば、当時シェリーもハリエットも未成年であったため、正式な結婚はできず、
エジンバラに駆け落ちしたようである。

*7) 「イギリスの名誉ある詩人の称号。中世以来ヨーロッパにおいて、名声ある詩人は、多く王室
もしくは貴族によって保護されてきた伝統をもつ。ルネサンス期イギリスでは、たとえばスケルトン
のごとく、当代第一の詩人として諸大学によって選ばれた詩人にこの称号は贈られたが、今日みられ
るように王室に関係ある詩人職として制定されたのは、実質的に1616年ジェームズ1世によってベン・
ジョンソンが選ばれたことに始まる。公式には1670年にドライデンが任命され、年金300ポンド
およびカナリア諸島産ぶどう酒を授かった。その後、サウジー、ワーズワース、テニソンらから、
20世紀に入っては、ブリッジズ、メースフィールドを経てデー・ルイス、さらにベッチマン、テッド・
ヒューズらが選ばれている。しかし、桂冠詩人かならずしも大詩人ではなく、以上にあげたものの
ほかは、その多くがほとんど無名に近い群小詩人として名をとどめるにすぎない。現在は宮内官と
して一定の年俸を支給され、前任者が死亡したとき、政府によって推薦される終身制をとっている。
王室の慶弔あるいは国家的行事や重大事に際して、詩をつくることを義務としているが、いまはそれも
任意となり、かならずしも義務づけられていない。」
(上田和夫著『スーパーニッポニカ2003DVD』「桂冠詩人」小学館2003)

*8) 「夢想と反抗の性癖は、ゴドウィンの『政治的正義』を読むようになってからしだいに
対社会的な理想主義に熟していった。」
(上島建吉著『スーパーニッポニカ2003DVD』「シェリー」小学館2003)

*9) 「(1797―1851)イギリスの女流小説家。政治評論家ウィリアム・ゴドウィンと
『女性の権利の擁護』の著者メアリー・ウルストンクラフトの娘。母は彼女を生んで死に、
継母のもとで育てられた。16歳のとき詩人シェリーとヨーロッパに駆け落ちし、1816年、
彼の先妻ハリエットの自殺後、正式に結婚した。高い知性と鋭い感性の持ち主で、怪奇小説
『フランケンシュタイン』(1818)、21世紀における人類の滅亡を描く『最後の人』(1826)、
自伝的な要素を秘める『ロードア』(1835)などを書き、また夭折した夫の詩集(4巻)も
編んだ。ロンドンで死去。」
(佐野晃著『スーパーニッポニカ2003DVD』「シェリー夫人」)

*10) 「この詩[マブ女王]への最初の言及と思われるものとして、一八一一年一二月一一日の
女教師エリザベス・ヒッチナー(Elizabeth Hitchener)宛の書簡で、シェリーは、昨夜自分は
長編詩を着想し(中略)所が、執筆は、翌年の初め(二月−四月四日)に行われた(中略)アイ
リッシュ・キャンペーンのためにひきのばされた。」
(『シェリー研究』高橋規矩著 桐原書店 1981)

*11) 「後者[アイアンシー]はオケアノス《オーション》とテテュスの娘でオケアニデス
《オシアニディーズ》の一人の名前(『シェリー研究』高橋規矩著 桐原書店 1981)」
であり、オケアノスとは「ギリシア神話の水の神。天空神ウラノスと大地の女神ガイアの子で、
ティタン神族の一人。オケアノスは、平板な円形の大地を取り巻いて流れる大河または大洋と
考えられ、地下を通じて世界のすべての河川や泉とつながっていた。つまり、オケアノスは地の
果てであり、ヘスペリデスの園、エリシオンの野、怪物ゲリオン、怪女ゴルゴンなど、不思議な
場所や生き物はすべてこの大河の岸辺に置かれているとされていた。しかし、やがて古代人の
地理的知識が進歩すると、オケアノスの名はしだいに大西洋のみをさすようになった。オケア
ノスはテテュスを妻として、すべての河川と3000人の娘たち(オケアニデス)をもうけた。」
(小川正広著『スーパーニッポニカ2003DVD』「オケアノス」小学館2003)

*12) メアリーはハリエットのことを気に病んでいたようである。(講義より)

*13) 上島建吉著『スーパーニッポニカ2003DVD』「シェリー」の項にある表現。「1813年、
社会改良の夢を歌った最初の長詩『マブ女王』が出るころから、ハリエットへの気持ちはしだいに
冷め、かわってゴドウィン家の長女メアリーが、詩人にとって新たな「理想美」となった。14年
シェリーはメアリーとヨーロッパ大陸に走り、帰国後も同棲(どうせい)を続ける間、理想美探究を
テーマとした初期の代表作『アラストー』を書いた。」小学館2003

*14) 『鎖を解かれたプロメテウス』の執筆には、『マブ女王』時代に既に読んでいたヘシオドスに
よるプロメテウス描写に加え、アイスキュロスの『縛られたプロメテウス』を読み、悲劇の善神プロ
メテウスのイメージを摂取したことが前提となっている。アイスキュロスの『縛られたプロメテウス』
については、「一八一六年、一八一七年七月一三日、一八一八年三月二六日といった彼の読書の記録が
ある」(『シェリー研究』高橋規矩著 桐原書店 1981)

*15) 上島建吉著『スーパーニッポニカ2003DVD』「シェリー」の項にある表現。

*16) 『神曲』は「全1万4233行からなる壮大な長編叙事詩で、均整のとれた構成はしばしば大聖堂に
例えられる。「地獄」「煉獄」「天国」の3編からなり、各編は33歌から、また各連は3行からなる。
「地獄」の冒頭には序歌にあたる1歌が置かれ、結局『神曲』は1+33+33+33=100、すなわち100
歌によって構成される。ダンテは三位一体説を奉じて、その文学的表現をこの長編叙事詩に達成しよう
と企図したため、1、3、9(=32)、10(=32+1)、100(=102)といった数字(10は完全数)が作品の
隅々にまで行き渡っている。」(河島英昭著『スーパーニッポニカ2003DVD』「神曲」小学館2003)
また河島氏は同文で『神曲』の和訳について「審美的解釈とキリスト者的接近の仕方が主流を占めたまま、
イタリア語原典から本来の寓意としての「愛」をとらえきれないままに、明治、大正、昭和の3代を経つつ
あるといってよいであろう。」とも述べている。

*17) 「ことば自体の意味は韻を踏まない詩ということにすぎないが、ブランク・バースはイギリスの詩や
劇にもっとも広く用いられる詩形をいう。五脚弱強調、つまり1行のうちに弱強のリズムが5回繰り返され
るというものであり、(中略)16世紀中葉、詩人サリーEarl of Surrey(1517?―47)がウェルギリウスの
『アエネイス』を訳すのに用い、またサックビルThomas Sackville(1536―1608)とノートンThomas
Norton(1532―84)合作の戯曲『ゴーボダック』Gorboduc(1561初演、1565刊)がこの詩形で書かれた
ころから一般的になり、マーローの雄弁な台詞を経てシェークスピアで頂点に達した。その後もミドルトンや
ウェブスターらの劇、ミルトンの『失楽園』、さらには19世紀の詩人テニスン、ワーズワース、ブラウニング、
20世紀のT・S・エリオットらに受け継がれている。」
(村上淑郎著『スーパーニッポニカ2003DVD』「無韻詩」小学館2003)

*18) 高橋規矩氏は「シェリー自身が『クイーン・マッブ』は文学作品としても道徳的政治的思索、
形而上学的宗教的理論でも無価値だと断言してはいるけれども、この詩には、やがて優れた詩人、
思想家としての彼の諸々の特徴が、たとえ粗雑で未熟な姿であろうとも、随所に数多く現れている
のである。」と、その質の低さを認めつつも一定の評価を与えている。
(『シェリー研究』p4 高橋規矩著 桐原書店 1981)

*19) 「「過去」の人間の愚行から「未来」の警告を学びとったアイアンシー(の〈魂〉)にマッブが
指摘する「現在」の罪悪は、次の三つに大別される。即ち、(1)君主政治(第三・四歌)、(2)商業(第五歌)、
(3)宗教(第六・七歌)である。」(同上p11)

*20) 同上p13-19

*21) 同上p42

*22) 同上p11

*23) 同上p21

*24) 同上p30

*25) 同上p166

*26) 同上p40

*27) 同上p9

*28) 同上p71

*29) 同上p80

*30) 同上p86

*31) 同上p111

*32) 同上p141

*33) 同上p143

*34) 同上p121

*35) 講義より。

*36) シェリーは『Sonnet to Byron』と題する詩すら書いている。

*37) 「オスマン帝国は、三大陸にまたがる多民族国家を統治するために二つの支柱に依拠した。
その第一は、優秀な人材の開発をめざして、キリスト教徒の子弟からも才幹の発掘を狙ったデヴシ
ルメと呼ばれる制度など、メリトクラシー(実力本位主義)による人事の登用と昇進のシステムで
ある。第二は、啓典の民に寛容なイスラムの理念と伝統である。現在のバルカン諸民族の祖先にあ
たるキリスト教徒の男子たちは、資質と家系に加えて健康と眉目秀麗ぶりを評価されると、デヴシ
ルメによってムスリムに改宗させられたのちに、軍人や官僚としてオスマン帝国の加判の列に参与
したものである。
 オスマン帝国は、確かに「帝国」と銘を打っていた。しかし、トルコ史研究者の鈴木董がオスマ
ン帝国の性格をいみじくも「柔らかい専制」と呼んだように、その多民族国家としての性格は支配
民族からトルコ人という意識を希薄にさせることになった。なぜなら、大宰相や海軍提督のような
文武の高官のほとんどがデヴシルメから頭角を現した者ばかりだったので、本来はトルコ系の王朝
だったオスマン帝国も、発展につれてコスモポリタンな性格を強める一方だったからである。一六
世紀半ばのハプスブルク朝のある外交官が、「トルコ人は隠れた人材を掘り起こすことに無上の喜
びを感じ、あたかも貴重品を入手するかの如くで、人材を陶冶する労苦をいとわぬ」と感嘆したの
は、最盛期の帝国においては決して誇張ではなかった。」
(『民族と国家』p81-82 山内昌之著 岩波新書 1993)
 なお『The Revolt of Islam』においてレイオンとシスナを殺すよう主張するのはキリスト教徒
のpriestであるが、これはキリスト教共同体内の裁判については共同体の指導者が権限を持ってい
たという史実と一致しているものの、シェリーがオスマン帝国について(あるいはヨーロッパの王
権に対してさえ)激しい偏見を持っていたことは想像に難くなく、実際のところは分かっていたの
か分かっていなかったのか、よく判らない。

*38) 『シェリー研究』p216-217 高橋規矩著 桐原書店 1981

*39) 『Prometheus Unbound』第一場第一幕

*40) 「むしろ定義しえぬところにその最大の特徴があるとさえいわれるほどである。しかし、
ただ一つ確言できるのは、それがフランス革命直後の西欧の市民社会形成期に発生した文学・芸術
であるという事実である。この革命は自由と平等を高く掲げて非合理な秩序を打破し、生の深い
現実に根ざした真実を希求する理想主義を高揚させた。ところが、その理想主義がたちまち直面
したのは、出生による不平等にとってかわった富による不平等であり、その結果、解放されながら
抑圧された自我は、精神の尊厳をかざして功利主義的体制に反逆するのでなければ、いたずらに
不安、倦怠、無為、焦燥を徴候とする「世紀病」に冒され、あるいは想像力を無限に発動させて
現実のかなたに自己充足しうる絶対境を打ち立てようとした。ロマン主義に感情の過多や表現の
誇張と同時に、超越ないし逃避的性格が生じたゆえんである。したがって、自ら生み出した抑圧
的な市民社会の真っただなかで、なお自由を希求する個的精神の苦闘というのがロマン主義の根幹
といってよく、まさしくその自己矛盾ゆえに、逆にこの運動は近代文明に対する鋭い批判の刃に
なりうるのである。」(加藤民男著『スーパーニッポニカ2003DVD』「ロマン主義」小学館2003)

*41) 『ソフィーの世界 −哲学者からの不思議な手紙』p443
Jostein Gaarder著 池田香代子訳 NHK出版 1995


参考文献
『シェリー研究』高橋規矩著 桐原書店 1981
『The poetical works of Percy Bysshe Shelley : with memoir, explanatory notes, &c』
  (出版者 London : Frederick Warne シュネル文庫 出版年不明 初期editionの再版)
『シェリーの世界 −詩と改革のレトリック−』坂口周作著 熊本商科大学海外事情研究所 1986
『地と天は裂けて −シェリ作品研究−』山田知良著 英宝社 1996
『スーパーニッポニカ2003DVD』小学館 2003
『ソフィーの世界 −哲学者からの不思議な手紙』Jostein Gaarder著 池田香代子訳 NHK出版 1995
『民族と国家』山内昌之著 岩波新書 1993
『死霊』埴谷雄高著 講談社文芸文庫 2003