シェリーの代表作というべき詩劇であり、第一幕が1818年に、第二・三幕が
1819年4月に、第四幕は1819年12月に執筆され、他の小品と共に1820年に
出版された。詩としての美しいスペクタクルは第三幕・第四幕にこそあるが、
思想的側面は第一幕・第二幕および第三幕の前半でほぼ用意され、あとは細かな
付け足しを重ねつつ理想郷のすばらしさを歌い上げることに字数が費やされる。
従ってここでは第一幕・第二幕・第三幕前半を中心に見ていく。
内容は基本的に『The Revolt of Islam』と同じ、愛を原理とする革命と
理想郷実現の物語であるが、微妙な違いも存在する。すなわち、第一に『The
Revolt of Islam』が主に人間社会内に着目するのに対し、『Prometheus
Unbound』は、愛の物語に全宇宙を包含する壮大さを見せている点で、主役を
ギリシャ神話の神霊に求めた舞台設定に相応しいスペクタクルが展開される。
第二に、こちらの方が重要であるが、『Queen Mab』が人類社会の問題の核心
を外部の制度に求めたのに対し『The Revolt of Islam』は人類社会の問題の
核心を精神内部の問題とし、精神に訴えて外部の社会を改善しようとし(て、
けっきょく失敗しレイオンとシスナは処刑された。そして『Alastor』の結末
を思い出させる死後の大団円を迎え)たが、『Prometheus Unbound』にお
いて、ついに外部は精神内部に吸収され解消してしまう。これによってプロメ
テウス及びエイシアが精神の改革を遂げると同時に、ジュピターはいとも簡単
に敗北するのである。ジュピターの簡単すぎる敗北についてはハンガーフォー
ド、バウラといった研究者によって劇としての失敗であると攻撃されており、
高橋氏もこれを認めた上で、これを『Prometheus Unbound』はギリシャ風
の神話劇であると同時に人間精神内部の葛藤のドラマでもあり、シェリーが後者
に重点を置いたために前者が犠牲になったと説明する。(*38)第一幕・第二幕
でプロメテウス及びエイシアが精神の改革を遂げた時点で悪しき精神であるゼ
ウスは敗北したのであり、反抗の余地はまったく奪われているというのである。
本レポートも基本的にこの説明を支持するが、なぜ人間精神内部の葛藤のドラ
マが社会改善のための愛の革命になりうるかといえば、シェリーが社会問題の
原因を100%人間精神内部の問題に求めるという急進的考えに辿り着いたため
に他ならないのではないだろうか。
さて、シェリーのキリスト観が『Queen Mab』から大きく変化したことが
伺える(*39)のがこの詩であるが、これに関して興味深い点がひとつある。
そもそもこの詩には、よく考えるといくらか奇妙な点が見つかる。まず第一
に、シェリーはアイスキュロスの『縛られたプロメテウス』をもとにこの詩を
書いたとされるが、その実、アイスキュロスのプロメテウスからはずいぶん
懸け離れてしまっている。アイスキュロスにおいてプロメテウスが人類に与え
たのは「火」であり、これは知恵の寓意かとも思われるが、この頃のシェリー
は中心的な価値を知恵や理性よりも愛に移しており、勢いプロメテウスが人類
に与えるものも火ではなくなってしまった。またシェリー自身がはっきり述べ
ているように、シェリーはアイスキュロスのプロメテウスがゼウスと和解した
ことを不服とし、ミルトン『失楽園』に言及しつつ、徹底抗戦の末ゼウスが敗北
するという筋書きを用意する。プロメテウスとジュピターの関係も変わってし
まい、アイスキュロスにおいて対立する独立した二者として描かれる両者は、
シェリーにおいてはジュピターがプロメテウスの単なる影、プロメテウス(=
人間精神)の悪しき一面でしか無くなっており、この結果ジュピターはプロメ
テウスの復活の前にあっけなく没落せざるを得なくなり、シェリーを常に擁護
する高橋規矩氏すら劇としては失敗と認めざるを得ない展開が用意されること
となった。そもそもシェリーが描こうとした主題である人間精神の物語とギリ
シャ神話劇に、一体どれだけの共有点があるというのだろうか。共有されてい
る点は意外と少ない。すると、その数少ない共有点の中には、これほど原作と
相違点があり、劇としての大きな汚点をすら生んでも、なおシェリーをしてこ
の詩を書かしめるほどの内容が含まれるはずなのである。
シェリーにそれほど訴えたプロメテウスという主題の持つ特徴は、むろん
「人間への憐憫(愛)ゆえの行為が原因となって不当な苦しみを受ける」と
いう、ただこれだけの内容である。ここに我々はキリストの受難、および既に
何度か検討してきた「敗北する高徳の士」という主題との平行関係を見出す。
シェリーの「高徳の士」は『Prometheus Unbound』に至り、外部の消滅
という事態においてようやく勝利を収めることが出来るが、この詩をシェリー
に書かしめたのは結局「敗北する高徳の士」という主題であった。『Queen
Mab』において単なる注意書き程度の言及でしかなかったものが、ここでは1篇
の長大な詩劇を書かしめる動機となっている。そして思い出しておきたいが、
シェリーは愛の革命を語るためにわざわざ(この点以外はほとんど書き換えて
しまわないといけないほど舞台設定として不適であったにも関わらず)プロメ
テウスの3000年の苦しみを引っ張り出してきたのみならず、前作『The Revolt
of Islam』では主人公達にわざわざ黄金都市での革命の前に屈辱と苦しみの
数年を与え、さらに一度与えた勝利を奪い取り(その後美しい天国を用意した
とはいえ)最後には火刑に処してしまったのである。これは我々の目には奇妙
に映る。たとえば心理学を少し学んでいれば、シェリーが彼の作中人物に与え
るような苦痛は、大概PTSDの原因となるような代物であって、こうした受難
が精神的向上に資するなどという発想は、どう逆立ちしても出てくるものでは
ない。ほとんど強迫的なサディズムの反復と言ってもいいような現象が、ここ
に見出される。あるいはキリスト教会組織、およびキリスト教の称える創造神
=復讐神を最後まで批判し続けながら、キリストについてだけは評価を翻した
のは、キリストがシェリーの考える理想の人物に不可欠な「苦難の末の復活」
を「受難」という形で果たしているのを発見したからこそではないか、そこに
も「敗北する高徳の士」という主題の反復があるのではないかとも疑われるの
である。この点は確言するにはより詳細な調査が必要だが、シェリーの理想像
に「苦悩をくぐり抜けた末の愛」という要素が必要不可欠であるらしいことは
押さえておきたい。
なお、シェリーの思想を概観するという目的からは、もう一点指摘しておき
たいことがある。以下の一節だが、
To know nor faith, nor love, nor law; to be
Omnipotent but friendless is to reign;
And Jove now reigned;
この書き様は、あたかも支配ということ自体が悪と分かたれがたく結びつい
ているかの如くである。では善は統治を行わないのであろうか。さらに三幕の
プロメテウス復活・ジュピター没落後の理想郷の描写では、人間達に関する以
下の描写がある。
;the man remains
Sceptureless, free, uncircumscribed, but man
Equal, unclassed, tribeless, and nationless,
Exempt from awe, worship degree, the king
Over himself
これはプロメテウス本人がYet am I king over myselfであることと呼応し
ているが、ここに見られる支配関係の拒否は、恐らく『The Revolt of Islam』
において既に存在したのであろう。レイオンとシスナは黄金都市の革命に成功
するが、新たな支配組織を確立する前に反撃にあって滅び去ってしまう。以上
の『Prometheus Unbound』からの引用と並べるとき、これは新たな支配権を
確立する暇がなかったのではなく、各人が各人の支配者となるべきであり支配
組織はそもそも構想されなかったのではないかと思えてくる。
すると、それではまずいのではないか、という気が当然してくる。強力な組織
を設立し、愛の革命を守らなければならないのではないか。
実は、シェリーの「愛の法則」に従えば、強力な組織を設立しないことも、
そのために敗北することも辻褄はあう。強力な組織が構築できなかったのは事実
だが、強力な組織とは争うための機構であり、そのような力を求めることは、
シェリーの「愛の革命」の理論には反することなのである。彼らは強力な組織を
求めず、故に敗北を余儀なくされることもあるが、その敗北をも甘受して尚も
彼らは愛と許しを説くのであり、その点で彼ら「高徳の士」の人間精神は、常に
勝利を収めている。『Prometheus Unbound』は、単にその精神の勝利を覆い
隠す世俗的・実利上の勝利が存在しないため、常に存在する勝利がたまたま表に
出ているだけのことで、「高徳の士」はいつでも勝利しているのである。
シェリーにとってレイオンとシスナが敗北せねばならなかったらしいことは、
すでに述べた。更にプロメテウスと違ってレイオンとシスナが最終的に殺されな
ければならなかったのは、あるいはこの愛の法則を確認するためであったかも
知れない。殺されようとも愛の法則を貫く姿を通し、死してもなお愛に満たされ
た人間精神は勝利するという主張を行うため、彼らは一度得た世俗の勝利を失わ
なければならなかったという解釈も可能であろう。
一方で、この主張は必ず常に堅固な支配関係の存在する現実とぶつかったとき、
神経症的な永遠の絶えざる権威の否定となるだろう。加藤民男はロマン主義につ
いて、その病的側面と自己矛盾を指摘し、その自己矛盾の故にロマン主義は近代
文明に対する鋭い批判となる(*40)と述べているが、一見明朗快活と見える
シェリーの世界にも、そのような病的世界への契機が含まれている。またヨース
タイン・ゴルデルはベストセラー『ソフィーの世界』において、哲学者のアルベ
ルトをして「ロマン主義運動はヨーロッパの最初の若者革命と言っていい。百五
十年あとのヒッピー文化とよく似ている」(*41)と言わしめているが、盲目的
な権威の否定は闘争のための闘争を繰り返す左翼学生運動を思い出させる部分も
ある。理念として部分的に興味深いものがあるにしても、現実の政治的主張とし
ては、あまり意味がないと言わざるを得まい。
このあと『西風の賦(Ode to the West Wind)』の前には、執筆当時は最も
評価の高かった『The Cenci』などを書くが、高橋規矩氏はあまり重要とは考え
なかったようで、軽く検討しつつも割いているページ数は少ない。特に思想面に
着目すると、以前の作品で固まった思想の再確認という程度で、目新しいものは
あまりないようである。よってこれにてシェリーの思想の概観は一旦締めくくり、
『Ode to the West Wind』を上記四篇の検討をもとに読んでみたい。