「愛の革命」とでも呼ぶべきものを歌った叙事詩であり、物語冒頭で聞き手
が超常者によって異界へと案内され、そこであるヴィジョンを体験するという
点では『Queen Mab』とよく似た形式を持つが、シェリーは「秩序立ち組織立っ
た議論により道徳的動機を勧める試みは何もしなかった。……感情を目覚まそう
と望むだけである。従ってこの詩は(純粋に導入部となっている第一詩篇を除け
ば)物語風であり、教訓詩風ではない。(*31)」と述べている。すなわち韻を
ふんだ論説文の如き『Queen Mab』の説教くさい形式を捨て、文学の名に相応し
い物語で読者の情緒に働きかけようとする方針転換が為されたのであり、『Queen
Mab』とはまったく異なる、情緒面を重視した方法論が採られている。すなわち
シェリーは(典型的な)教訓詩に代わる、詩を通じた社会改造の新しい方法論と
して物語詩(の体裁を取った、より洗練された教訓物語)を得たのである。とこ
ろで「教訓詩」などというものが存在しうるという点は、詩の役割についての興
味深い点と言えよう。今日においては、社会を変革したければ論説文を書き、
詩はもっぱら情緒的側面を追求する傾向が顕著である。この事は恐らく当時の
メディア状況とも関係しており、詩以外のメディアや前後の時代のメディア状況
との比較は興味深い事実を教えてくれそうである。
前後との比較では、『Queen Mab』においてはあまり重視されなかった愛への
着目を『Alastor』から引き継ぎ、しかし内容をより深化、拡大させている。
すなわち『Alastor』において単純に個人の幸福のために必要不可欠であった愛
は、今や社会改革の原理として意識される。そして『Queen Mab』で不自然な
制度に求められていた悪の根源は、今度は個々人の内面に求められる。「心は
運命の書」であり、心の状態如何でその人の運命は決まり、そこから負の感情を
取り除き、愛で満たすことが理想社会を実現するために必要とされる。(*32)
この問題の内部化は『Prometheus Unbound』においてさらに推し進められる
であろう。
それだけではない。愛は死のもたらす無常観に打ち勝ち、永遠性を保証する。
すなわちシスナは支配者達に向かって改心を呼びかけ、「もし何か生き残ると
すれば、愛と喜びに違いないと思います」と主張するのである。(*33)これは
Horace SmithがShelleyと競って制作した『Ozymandias』などの無常観に
対し、アンチテーゼとなっている。
しかし、興味深いのは、最終的な勝利を囁きながら、相変わらず「高徳の士」
は敗北し続けるという点である。レイオンとシスナはオスマンやその要請を受けた
ヨーロッパ王家の反撃で敗北し、火刑にあって命を落とし、愛の革命は後世に託
されるのである。なぜシェリーは自らの描いた理想人物達に勝利を与えないのか。
シェリーの生きる現実が未だ愛の革命を達成しない状態にあり、これから達成せ
ねばならぬもの故、作品中には過去の敗北を書くのだ、という説明は成り立たな
い。これから達成すべきものの達成される未来の姿を描くことも、シェリーには
可能なのだから。(現に『Prometheus Unbound』はギリシャ悲劇に題を取り
ながら、その実表現されているのは未来の人類社会のあるべき姿である)この
問題は『Prometheus Unbound』を概観する際に再度検討しよう。
なお二点ほど前後との深い関わりは持たないが、興味深い点を指摘しよう。
第一はバイロンと立場を異にする女性解放の理想(*34)で、ヘマンズに見当
はずれの暴言を吐いた(*35)バイロンとシェリーは、親しい友人同士(*36)
として、この見解の違いをどう考えていたのか、やや気になるところである。
また二点目として、オスマン帝国についてのイメージがやや注意を引く。当時
オスマン帝国といえば、バイロンがギリシャ独立戦争で戦ったであろう相手で
あり、残虐なイメージで語られることが極めて多かったが、実際のオスマン帝国
は末期にこそ少数民族の叛乱と鎮圧といった小競り合いが絶えなかったが、元来
ローマカトリック・ギリシャ正教、ユダヤ教にも信仰の自由と共同体の自治を
認め、あまつさえ制度的にキリスト教徒の家系の者を官僚に抜擢さえしたので
あり、ヨーロッパと比べれば極めて寛容な民族・宗教政策を採っていた。(*37)
シェリーもこのステレオタイプに嵌っているように見受けられるが、シェリー
が何の影響でこうしたオスマン帝国観を身につけたか、シェリーの『The Revolt
of Islam』が誰にどのようなイスラム帝国観を植え付けたか、1824年に制作
されたドラクロアの『キオスの虐殺』をはじめとする絵画や、政治思想関係の
著作とも比較すれば、ひとつの(誤った)ステレオタイプが生み出されてゆく
ひとつのケースが垣間見られて興味深いであろう。
(Web掲載時注:この点について教官は「最盛期のオスマン帝国と19世紀初等の
帝国は」必ずしも同じではありません。またオスマン帝国の人材登用は「改宗」を
前提としたメリトクラシーなので、ここら辺の扱いは非常に慎重にしないといけま
せん」とコメントしている)