1.Percy Bysshe Shelley概説

 シェリーは1792年8月4日、Sussex州Field Placeに、准男爵にし
て国会議員のTimothy Shelley卿の長男として生まれた。この時期に
注目すべきは彼が7、8歳まで姉・妹と共に育てられ、男友達がなかっ
た(*3)ということであろう。これらはシェリー未成年時の「怪異な
ものにあこがれる気質」「夢想と反抗の性癖」(*4)を説明する鍵と
なるかも知れない。その後1802年にBrentfordのSion House Academy、
1804年にEton College、そして1810年、Oxfordへと進学した。
Etonでは『Zastrozzi』『St. Irvyne ; or, the Rosicrucian』と
題する2冊のゴシック小説を書き、前者をイートン時代に、後者を
オックスフォード入学後に出版している(*5)。また同じ1810年
には『創作詩集』『マーガレット・ニコルソン遺構断片(Posthumous
Fragments of Margaret Nicholson)』等の詩集も刊行している。
この年で作品を世に問うというのは、当時の出版事情がどうあれ、
シェリーの早熟の才を示すものであろう。オックスフォードでは決闘
用の拳銃を常備し、時たま的を見つけては射撃するなど優秀な学生に
は似つかわしくない行動が多かったという証言があるが、前述の小説
作品と併せて見るとき、彼が内面に葛藤を抱えており、それを外部に
表出し、理解されたいという欲求を持っていたのではないかと感じさ
せるエピソードである。また1810年には、後にシェリーの初期の伝
記研究家の一人となる親友、無神論者のThomas Jefferson Hoggと
出会っている。また、同じ年には恋心を抱いていた従姉ハリエット・
グローヴ(無論、後に同情結婚する宿屋の娘ハリエットとは別人)が
結婚し、失恋の憂き目に遭ったらしい。
 1811年、問題作『無神論の必然性(Necessity of Atheism)』
を出版してホッグともどもオックスフォードを放校され、父ティモシー
卿はホッグとの交友を断つこと、家に戻り家庭教師のもとで学ぶこと
を要求するが、拒否。父の送金に頼ってロンドンで暮らした。宿屋の
娘Harriet Westbrookとの結婚(*6)や、1812の所謂「アイリッシュ・
キャンペーン」といった奔放な生活は、このようなモラトリアム状況
の中で行われた。シェリーの神概念について興味深い言葉を残してい
る友人であり、後に桂冠詩人(*7)となるRobert Southeyと出会う
のはこの年である。
 1812年、初期のシェリーの思想に大きな影響を及ぼしたWilliam
Godwin(*8)が存命と知り、手紙を書き、またその家を訪問して、
後の妻Mary Wollstonecraft Godwin(*9)と出会った。1813年に
は、1811年頃から構想を温めてきたらしい(*10)初の長編詩『マブ
女王(Queen Mab)』を完成・出版した。同年6月にはハリエットが
長女を生み、シェリーは『マブ女王』の主人公にしてティターン神族
のオケアノス・テテュスの三千人の娘達の一人の名(*11)であるア
イアンシーの名を授けたが、この頃すでにハリエットへの気持ちは冷め、
メアリー・ゴドウィンに接近してゆく。1814年11月30日ハリエットが
長男を生むが、この年にはシェリーはメアリーと共に一回目のヨーロッ
パ大陸渡航を行い、帰国後も同棲を続け、1815年2月22日にはメアリー
との間に長女をもうけている。1816年二度目の大陸渡航を行い、恐ら
くこのときスイスでLord ByronことGeorge Gordon Byronとの交友が
始まったらしい。この1816年の年末(12月10日)にハリエットが自殺
するが、同月30日にはシェリーはメアリーと正式に結婚している。二、
三の日付から見るに、シェリーもハリエットとの関係には相当嫌な思い
があったのであろう。非常に冷淡な対応が目立つ。(*12)なお、ハリ
エットとの間にもうけた一男一女については養育権をハリエットの父と
訴訟で争ったが、敗訴している。またメアリーとの間に四子をもうけて
いるが、三人までが幼くしてシェリーに先立っている。
 作品面では新たな「理想美(*13)」たるメアリーとの蜜月中の1815
年に、孤独を求める詩人の敗北と愛の重要性を描いた長編詩『アラスター
(Alastor; or, The Spirit of Solitude)』を執筆・出版。メアリーと
の結婚後1817年には愛の重要性をより前面に押し出し、愛の原理に基づ
く革命を描く『イスラムの叛乱(The Revolt of Islam 原題はLaon and
Cythna; or, The Revolution of the Golden City)』を執筆・出版。
その後プラトンの『饗宴』を読み、『イスラムの叛乱』に描いた自らの
思想に通底するものを読み取って感銘を受け、1818年これを英訳して
いる。1818年、シェリー夫妻は3度目の大陸渡航を行い、1820年ピサに
居を定めてからは、イギリスに帰ることはなかった。この時はイタリア各地を
転々とし、ヴェニスにバイロンを訪ね、同1818年エステにあるバイロン別荘
で代表作『鎖を解かれたプロメテウス(Prometheus Unbound)』第一幕を
執筆(*14)、1819年にはアルノ川畔で『西風の賦(Ode to the West Wind)』
を、また1820年には滞在していたJohn Gisborneの家で『雲雀によせて
(to a skylark)』を執筆するなど、次々と傑作を世に問うた。詩人もいよ
いよ脂がのってきたと言って良いであろう。1821年にはキーツの夭折を悼み
『アドネイス』を執筆、また散文『詩の擁護』もこの年に書かれているが、
これは「ロマン派詩観の最高の宣言(*15)」と称揚されている。
 シェリーの死は1822年、こうした絶頂期に突然訪れた。その死はいくつ
もの伝説的エピソードに包まれている。遺作となった『生の凱歌
(The Triumph of Life)』はダンテ『神曲』に倣い長大なテルツァ・リーマ
(terza rima)詩体(*16)をとっており、成功すれば技巧の人にして愛の
称揚者シェリーの代表作たり得たと思わせるだけに突然の死が惜しまれるが、
一方でロマン派を象徴する詩人に相応しい死を遂げたとも言えるかも知れない。