5.多文化主義

 多文化主義とは文化の多様性を強調する主張の中でも、1.複数
の文化間に通底する価値基準(全ての文化は人間性の向上に資する、
全ての文化は自由の増大を……といった言説)の存在を求めない 
2.差異は維持されるべきであり、そのために介入も必要とする 
といった特徴を持つ思想である。その第一の特徴から、しばしば分
離の方向性を示す。例としてフランス語文化の維持のために法律で
学校教育・企業店舗経営におけるフランス語使用を義務化したカナ
ダ・ケベック州や、聾者の文化の維持のため分離教育や聴力回復手
術の拒否を求める聾文化運動などが挙げられるが、ケベック州の運
動は過去に武装闘争にまで発展し、現在も独立の可能性を完全には
否定しないなど、過激な分離への運動と紙一重であり、日本の聾文
化宣言は先天性の聾者と中途失聴者・難聴者の間に亀裂を生んでし
まうなど、問題を含んでいる。
 多文化主義に関して懸念される点として、3点を指摘したい。一
点目は文化間に通底する価値基準を持たないために、文化的保守主
義と化し批判能力を失うのではないかという懸念、二点目は文化的
差異の維持のために行う介入が個人の自由を侵害するのではないか
という懸念、三点目は既に述べた分離への傾倒が過激になりすぎる
問題はないか、という懸念である。
 第一点目が問題となる例として、後進国における民主主義の実現
などが考えられるであろう。多文化主義に基づけば、民主主義の世
界への普及というアメリカニズムの目標は拒否され、その土地に適
した政治体制が行われるべきであり、あるいはその政治体制の維持
のために何らかの統制、圧力すら肯定される可能性がある。先進国
で行われる議会制民主主義を後進国にそのまま施行してうまく行く
とは限らないが、現状の政治体制が正しいとも限らない。そうした
とき、あらゆる文化に共通の価値基準を有さない多文化主義は、現
状の批判ができないまま肯定してしまう可能性がある。
 第二点目は聾文化において顕著である。すなわち聾者の多くが聾
者と結婚することを望み、子供も聾者であることを願うが、子供に
聴力回復手術を受けさせないことは子供の権利侵害である、とする
主張もある。多文化主義が文化間に通底する価値基準を有さない以
上、背景に自由を絶対の価値基準としてもっている「子供には聞こ
えることを選択する権利がある」という主張や、身体的健全性(こ
の概念の内容についても聾者は反発するであろうが)を絶対の価値
基準とする「子供には聞こえるようになる権利がある」という主張
は、聾文化宣言と対話できる余地はない。また、人は生まれる文化
集団を選択できず、かつ生後もしばらくは自分の属する文化集団に
ついて好悪を述べる能力を持たないことも、この問題の困難のひと
つである。自由を絶対の価値基準にしたところで、その自由を子供
が行使できるようになるまでの間どの文化集団に属せばいいのか決
めることは困難であるが、自由が行使できるようになる頃には、特
に言語発達などにおいて、取り返しがつかない状態になってしまっ
ていることになる。
 第三点目の分離へのムーブメントの危険については既に軽く触れ
たが、ここで「差異からの疎外」「差異への疎外」という概念を紹
介しておこう。差別の形には二種類がある。すなわち隔離して貶め
る差別と、統合し同一の位階の中での優劣関係として貶める差別で
ある。前者は差異を強調する差別であり、後者は差異を否定する差
別と言えよう。これに対し、文化的被差別集団は自己の文化を保っ
たまま差別を撤廃しようとする。すなわち隔離には憎むべき差異が
存在するが、統合には、必要な差異が存在しないのである。必要な
差異が存在しない状態を「差異からの疎外」と述べることができよ
う。
 これに対して積極的に介入を行い差異を確保することが多文化主
義の主張だが、これがかえって「差異への疎外」を生むのではない
かという危険がある。その一つの現れが、差異を徹底したところに
生じる分離の動きであり、別な現れが、「必要な差異」を確保した
はずであったのに、その差異がコミュニケーションの欠乏を生み、
いつの間にか「憎むべき差異」差別的差異を再生してしまう危険性
である。

 人間は本来的に社会において互いに繋がりあうものであり、人類
社会をあまりに細分化してしまうことには躊躇がある。しかし一方
で自己のアイデンティティを確保できるだけの距離、分節は必要で
ある。確かに自由には何物にも代えがたい価値があると思われるが、
それをあまりに強調して価値ある伝統が廃れていくのを見るのも忍
びない。現状がまったく問題ないなどという事はあり得ないので、
現状を批判し得るだけの価値基準は必要だが、その価値基準が異文
化間での恣意的断罪、コロニアリスティックな批判の理論になって
しまうことは避けねばならない。結局のところ、多文化主義は一定
の意義はあるものの、そこに安住できる思想ではないように思われ
る。完全な肯定も完全な否定もできないこの問題について、我々は
恐らく若き日のフランツ・ファノンが望んだように、問い続けるよ
り他ないのであろう。そして問い続ける中で賢明な判断を下せる事、
馬鹿正直に信じていれば良い模範解答など無くとも、自ら答えを選
択していける事こそが、人類の崇高を証立てるのではないだろうか。