対−形象化とは、本来個々それぞれに差異を持った諸要素を「彼
ら」と「我々」に二分し、「彼ら」集団に含まれる諸要素の間に、
また「我々」集団に含まれる諸要素の間に、ある均質性を想定し、
そうすることで「彼ら」「我々」という、もともと存在しなかった
枠組みをひと組の形で、同時発生的に確立する働きであり、しばし
ば個々の要素のもつ差異を無視してしまうこと、確立される「彼ら」
「我々」という枠組みが恣意的で虚構的なこと等が問題とされる。
かかる概念ゆえ、対−形象化はあらゆる場面で見出される。脳死
を巡る梅原猛、C・ベッカーらの議論などは、その最も重大な結果
を招く恐れのある一例という事ができよう。しかしより卑近なとこ
ろにも例を見出すことはできる。例えば我々は障害者と健常者とい
う2つの枠組みを対−形象化する。この場合「健常者」「障害者」
それぞれの枠組みに配属された個々人は、まずステレオタイプを押
しつけられ、ステレオタイプに沿って理解しようとされる事になる。
障害者をステレオタイプ化してはならない、という警句は障害問
題周辺では嫌というほど繰り返し語られることだが、一方の健常者
側にも「健常者は正常な者であり、正常であらねばならない」とい
う強要・強迫観念を生じることになるのではないだろうか。それが
問題となるのは、健常者が「障害者/健常者」という枠組みを跨ご
うとするときである。「障害者」という枠組みをステレオタイプ化
し、その個々の事例をきちんと見ずに遠くから(おそらく障害を持
つ事への憐れみと恐怖を込めて)眺めるが故に、新たに障害を負っ
てしまった人は過剰に失望せねばならない。こと精神障害となると
境界が曖昧なだけに、問題は一層深刻になる。精神の不調を負って
も、なかなか精神科の受診ができない。臨床心理士のカウンセリン
グを過剰に重く受け止めてしまう。精神に不調を負っているという
事実を重く受け止めすぎ、かえって症状を悪化させる。精神に不調
を負っていても、「健常者」の枠組みに留まり続けるために、周囲
に対しそれを無理に隠す。
対−形象化の規制は、おおよそ自己集団と他者集団が想定される
あらゆる状況において、何らかの形でその弊害を露呈する。その図
式の中に陥らぬよう、注意が必要である。