2.第一次大戦と「文化」「文明」

 第一次世界大戦と「文化」「文明」概念は、まずドイツにおいて
大きな接点を持つ。即ちドイツにおける思想形成のキーワードとし
て「文化(Kultur)」と「文明(Zivilisation)」の概念が問題と
なったのである。そこでは「文明」と「文化」が対置され、第一次
大戦を「『文明』を強制する英仏に対し、ドイツ『文化』を死守す
るための戦い」と捉える傾向が生じていた。その後ドイツは敗戦す
るが、戦中ドイツで語られた「西洋文明(Zivilisation)」の凋落
は、第一次大戦の廃墟を背景としてあるリアリティを持つようにな
り、「西洋の没落」や文化の内包する悲劇が語られるようになる。
 元来「文化(Kultur)」「文明(Zivilisation)」の語源は古代
ローマ、ラテン語に遡るが、フランス語や英語において繰り返し問
題とされたのはもっぱら「文明(civilization / civilisation)」
という語であったのに対し、「文化(Kultur)」が特にクローズ
アップされたのはドイツにおいてであった。すなわちヘルダー
(1744-1803)は文化が多様であり得る(ただし全ての文化に共
通する価値基準として「発展」「人間性」といった概念を想定して
いるらしい)という文化的多元主義に近い考えを呈示し、カント
(1724-1804)は世界認識において単なる物質的因果連関を超越
し形而上学的次元を与えるものとして「文化」を捉えた。カントの
文化に関する省察は新カント派において、自然科学と対置される
「文化科学」という概念の提起に繋がった。すなわち従来の自然科
学は物質的因果連関を究明する学であり、一方「文化科学」は物質
的因果連関を超えた形而上学的次元において価値を考究する学問で
あると考えられた。(*9)
 当時ヨーロッパの後進国であったドイツには、フィヒテ(1762-
1814)の民族主義的思想や「19世紀40年代から20世紀初頭にか
けてドイツで最大の影響力をもった当時のドイツにおける正統的経
済学派(*10)」である歴史学派経済学の主張など、民族・国家の
独自性を強調する思想の伝統があったが、ヘルダー・カントおよび
新カント派が呈示した「文化」概念はイギリスやフランスの「文明
化」イデオロギーに対抗しうる理論を与えた。英仏は広大な植民地
と強大な国力を誇るが、英仏の在り方のみが人類の目指すべき理想
ではなく、人類の目標(=文化)は多様であり得る。そしてドイツ
は文化の名に相応しい精神性を有するドイツ文化を担うが、英仏の
文化はすでに精神性を喪失し、物質主義的な「文明」に堕落してし
まっているというのである。テンニースは1887年の著書で自らが
提起した概念「ゲゼルシャフト/ゲマインシャフト」に「文明/文
化」を関連づけ、「ゲゼルシャフト−文明−戦争状態」対「ゲマイ
ンシャフト−文化−秩序」という二項対立図式を描く。またトーマ
ス・マンは第一次大戦下、「文明−社会(物質?)−大衆−民主主
義」と「文化−魂(精神)−民族(国民)−貴族主義」を対置し、
後者を称揚する。そしてマンにおいて、ついにこの対立が第一次大
戦の戦争理由として用いられるようになった。(*11)マンに限ら
ず第一次世界大戦を文化・文明の衝突と見る傾向は当時のドイツ知
識人に広く見られた傾向である。(*12)
 第一次大戦はドイツの敗北で幕を閉じたが、廃墟と化したヨーロッ
パの思想は、戦前・戦中のドイツ知識人が主張したのと必ずしも同じ
形ではないにしても、それを彷彿とさせる形で文化・文明の中にある
危機を見出してゆく。既にM・ウェーバーは戦前の1904年から1905
年にかけて発表した論文『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の
精神』において「世界の脱魔術化」を語っていたが、これは爛熟した
(英仏)文化が精神性(形而上学的次元・価値の次元)を喪失すると
いう言説と共鳴する。さらに戦後、シュペングラーはウェーバーに見
られる文化一般のやや暗い見通し(そこからはドイツ文化もまた逃れ
ることはできない)を「全ての文化が辿る悲劇」として明確に述べた。
すなわち(英仏に限らず)「文化」は爛熟の果てに「文明」へと堕落
するのであり、西洋文明はまさに没落の時を迎えているというのだ。
またフロイトは文化が「自然に対する人間の防衛と、人間相互の関係
の規制とに役立っている」反面「われわれが、今日の文化の中で心地
よく感じていないことは、確実であるように思われる」と述べ、ジン
メルは「文化の若干の現象において……形式の原理一般に対する敵対
性を認めることができるのである。」と語り、共に文化がもつ避けが
たい悲劇性を語ったのである。(*13)