(1) ポーランド成立
ポーランドとは、そもそもどのような領域に成立した国家であっ
ただろうか。「東欧の主要民族であるスラブ人の起源と原住地につ
いてはいくつかの説があるが、確定できない。紀元前後には、原ス
ラブ人はバルト海沿岸からドニエプル川上流地方にかけて居住して
おり、2世紀から6世紀にかけて分裂しながら居住地を拡散させて
いった。(中略)西スラブ人はさらに分化してポーランド人、チェ
コ人(チェック人)、スロバキア人を形成した。(*5)」「ポーラ
ンドでは10世紀後半にピアスト家が支配を固め、ボレスワフ1世
(在位992〜1025)、ボレスワフ2世(在位1058〜79)の治下に
王国の統一がなった(*6)」が、当時のフランク王国が東進しつつ
もオーデル川を越えておらず、キエフ・ノヴゴロド両公国がリガ湾
を通る経線の東側に迫りつつもそれを越えていないことから、当時
のポーランド人の勢力範囲は(あまり判然としないが)現代ポーラ
ンドが経験した領域変化の範囲内から、そう外れてはいなかったと
考えられる。なお、ポーランド(ポーランド語ではポルスカ)とは
もともと「草原」を意味する語だという(*7)が、その領域はドイ
ツ北部・ユトランド半島の付け根からモスクワを遙かに越えてカス
ピ海北方まで続く東ヨーロッパ平原の西部に当たり、南方をズデー
テン・カルパチア両山脈が画しているものの、東西方向には自然国
境としての役割を果たすような山岳地は存在しない。川は南北方向
に数多く流れているが、それが国境線と一致した例はあまり見られ
ない。
なお、カルパチア山脈はポーランド南部から南東方向に走ってルー
マニアに至り、トランシルバニア山脈・バルカン山脈と接続してバ
ルカン半島まで、ヨーロッパとアジアの分割線を為している。千m
を越える高地が続き、幅も厚く、軍隊などの重装備・大人数の移動
を阻むには充分な規模の堂々たる山脈である。そのため陸上で西
ヨーロッパと旧ソ連圏を結ぶ人の移動は、ポーランドを指向するの
である。
即ち、ポーランドの成立領域については、こう言えるだろう。南方
を自然国境としてのズデーテン・カルパート両山脈に規定されている
が、東西方向には決定的な境界を持たず、しかも東西交通の要衝とし
てしばしば係争地となってきた領域である。
(2) 大ポーランド(*8)
この後しばらくポーランドは分裂状態に陥り、モンゴル軍やドイツ
騎士団の侵略に苦しむが、14世紀ウォキェテクの手で再建され、カ
ジミェシュ大王のもと政治的・経済的に向上し、やがてリトアニアと
の合同、ヤギェヴォ朝「大ポーランド」の成立を見る。この時期の
ポーランドの領域を見ると、西部領域・南東領域が第一次大戦直後の
ヴェルサイユ条約で確定された国境線に近い。(西部については14
世紀大ポーランドの領域の方が、ポズニナの南・クラクフの西がやや
広いように見える)このうち西部領域は16世紀ルブリン合同・17
世紀後半のポーランド弱体化を通じてもさほど変化せず、18世紀末
ポーランド分割の前まで維持された。すなわちここがヴェルサイユ条
約で正式に歴史的正当性を主張できるラインであったと言えよう。一
方東方領域については16世紀にはウクライナを併合しており、17
世紀後半にはコサックの反乱やロシアの干渉、スウェーデンの侵略を
受けたりと、大きく変動している。
(3) ポーランド分割
大ポーランドの成立以来、ポーランド東方国境は大きな変動を経験
したが、ヴェルサイユ体制下でひとつの焦点となったのが「ポーラン
ド分割前の領域」であったことは興味深い。なぜ他の領域ではなく
ポーランド分割であったのか。この点を詳細に分析することは、「正
当な領土」を語る際の一国民の振る舞いについて知る上で有意義であ
ろう。
1772年・1793年・1795年の三回にわたって、ポーランドはロシ
ア・オーストリア・プロイセンに分割され消滅した。そしてヴェルサ
イユ条約において、この分割以前の国境線が問題となった。しかし
ポーランドが経験した悲劇ということならば、ポーランド分割だけで
はない。全人口の3分の1が失われたとされる17世紀後半の混乱を
はじめ、ポーランドは繰り返し苦渋の歴史をくぐり抜けてきた。それ
にも関わらずポーランド分割が回帰すべき点として重視された理由と
しては、この時期にようやくポーランドに愛国的「国民」が誕生した
ということが予想される。折しも1789年にはフランス革命が起き、
第二回ポーランド分割の後に反乱を起こしたコシューシコはフランス
革命政府の援助を求めている。また、このコシューシコの軍事的成功
の一翼を一般民衆が担っている。一方、富裕層には分割を支持する者
もあったとされる。(*9)より詳細に、当時のコシューシコの支持者、
反対者、有産者、貧民、それぞれの精神構造を分析する事ができれば、
この疑問を解くことが出来よう。
(4) ワルシャワ公国・ポーランド王国
分割されたポーランドが再び地図上に現れる(従って本レポートの
主題であるポーランドの国境線が再び地球上に姿を現す)のは、民族
の自由と独立を旗印に膨張戦争を開始したナポレオンがワルシャワ公
国を創設したときである。ナポレオン敗北後にはワルシャワ公国は消
滅し、代わってポーランド王国やポズニナ大公国などいくつかの傀儡
国家が誕生した。ここでは政権の内部構造については問わず、国境の
みを見ていくが、ワルシャワ公国・ポーランド王国を通じて東の国境
と定められた線(一部ウィスラ川の支流・ブグ川に沿って走る)は、
後のカーゾン線・現ポーランド国境にかなり近い。この一致は、カー
ゾン線がポーランド人集住地域の東端を画した線であり、現国境も、
ワルシャワ公国・ポーランド王国国境も同様の指針で引かれた線であ
ることによるのであろう。なお南部国境は北緯50度以南が現国境よ
り狭く、西部はワルシャワ公国においてはヴェルサイユ条約のそれに
近く、ポーランド王国においては大幅に縮小され、分割されている。
(5) ヴェルサイユ体制・ポーランド共和国
ナポレオン後に成立した傀儡国家は結局、支配国家に飲み込まれて
ゆく。次にポーランドが再び国境を持つのはヴェルサイユ体制下の
ポーランド共和国の成立後である。この際、ピウスツキ・ドモフスキ・
連合国最高会議の三者がそれぞれ異なる思惑を有したことが山本俊朗・
井内敏夫著『ポーランド民族の歴史』に描かれている(*10)。すなわち
ピウスツキが東方への勢力拡張を重視したのに対し、ドモフスキは西方
の工業地帯を重視、いずれも連合国最高会議の提案より少しでも広い
領域の獲得を目指したというのである。
連合国最高会議の東方国境に関する提案は「カーゾンライン」と呼
ばれるもので、既に述べたとおりポーランド人集住地域の東端を画し
たものである。一方ピウスツキ・ドモフスキは共に第二次ポーランド
分割前の国境線に近いラインを目標とした。ただしピウスツキがその
ラインを「戦略的観点から」必須とし、更に東に勢力を拡張する考え
であったのに対し、ドモフスキはこの線を自国に利する最大限の範囲
と考え、それ以上の拡張はロシアとの衝突を招き、また少数民族問題
を抱え込む原因になると忌避している。結局ポーランドはピウスツキ
の方針に従い軍事力をもって東方に膨張、ロシア軍と衝突し、あわや
国家存亡の危機にまで陥りながらもカーゾン線より大幅に東へ拡張さ
れた領土を確保するに至った。
なお、ヴェルサイユ体制下のポーランド共和国が「深刻な分裂状態
(*11)」にあった事を確認しておきたい。第一次大戦終結当時には
ポーランド国内にはいくつもの権力機関が存在しており、ピウスツキ
がカリスマ性を発揮してこれを統一したものの、議会は小党分立状態
で混乱を呈した。「代議員選挙に名乗り出た団体は二五,その中で
「国家表」を請求する資格──六選挙区で立候補者名簿を出すこと──
を持つ団体だけでも一八グループにのぼった。これはポーランドが民
族や階級の対立ばかりでなく、分割時代の地方意識によって、深刻な
分裂状態に陥っていたことを示している。(『ポーランド民族の歴史』
P146-147)」こうした状況にも関わらず、けっきょくポーランドが
分裂しなかったことは、民族・国民の枠組みについて何らかの知見を
もたらすであろう。
(6) ナチスの占領、テヘラン・ポツダム会談
戦間期のポーランドは混乱を極めたが、本レポートが問題とする
国境線はナチスの台頭まで大きな変化はない。ナチス台頭に伴い
ポーランドはベック外相の指揮下、対ソ・対独政策として東欧内の
同盟構築を目指し、またリトアニア及びチェコスロバキアに領土的
野心を示し、実際にチェコをドイツと分割したが、ドイツ軍の攻勢
とソ連の侵攻の前にあえなく消滅した。
ポーランドの再建は他のヨーロッパ諸国と同じく、米・英・ソ三
国にかかっていた。この三国がポーランドの国境について議論した
のは、主にテヘラン会談・ポツダム会談においてであり、東部国境
についてはテヘランでカーゾンラインにほぼ確定、西部国境はテヘ
ランでオーデル川と合意が成立していたが、その後ポーランドへの
影響力を確保したソ連の圧力で、「オドラ(オーデル)−ニサ線」
に拡張され、シュレジエン地方の肥沃な穀倉地帯をも手に入れた。
カーゾン線については第一次大戦時から議論されてきた「適切な
国境線」であり、この際これが選択されたのは比較的自然なことと
言えるだろう。しかし西部国境のオドラ−ニサ線は、ポーランド人
がほとんど住まないドイツ人の土地をポーランド領に編入するもの
(*12)であり、少なくとも民族自決の原則にはそぐわぬものであ
る。また歴史的正当性を考えても、この領域がポーランド領であっ
たのはポーランド成立直後の11世紀・12世紀のみで、12世紀
前半に最初の国家分裂が始まって以来、ここまでの領域がポーラン
ドの支配下にあった時期はない。ドイツに対する報復的意味が濃厚
である。
以上でポーランドの国境の変遷を概観した。第二次大戦以降も
ポーランドは共産主義から自由化、西欧への歩み寄り、アメリカと
の安全保障上の結びつき、イラク戦争派兵と政治のみに焦点を絞っ
ても興味深い展開を見せるが、国境問題についてはもはや動きはな
くなる。次に、以上で見たポーランドの国境の変遷から、国境を巡
る争いについて、なにがしかの知見を引き出してみよう。