3.社会的方策についての考察

 子どものPTSDの発症を抑え、あるいは治療を促進するためには、
まずはカウンセリング制度を整えることが第一であろう。治療者の
人数を確保し、同時に資金的な保証を確立し、いつでも気軽に相談
できる窓口を設けてその存在を広く広報する一方、多数の児童、
幼児が災害・犯罪の被害にあったときには、迅速で組織的な介入が
可能な制度を作り上げることが求められる。
 しかし、こうした対応では限界もある。第一に、カウンセリング
は一定の効果が認められるものの、結局一度PTSDという病を背負う
ことになってしまった人を完全に治癒する能力はない。その症状を
軽くはできても、一度負った心の傷は終生その人を苦しめ続けること
になろう。第二にこれらの方策は予防策にはならない。悲惨な戦争が
発生し、あるいは凶悪犯罪の発生率が上昇すれば、せっかくカウンセ
リング制度を整えても、その制度の能力を超えるPTSD患者が容易に
発生するであろう。第三に、カウンセリングはPTSD患者の回復を
手助けはしても、最終的には患者は自らの力で回復せねばならないと
言うことである。カウンセラーと良好な関係を築くことに成功し、
カウンセリングの場において機能性を高めたとしても、最終的には
患者はPTSDの専門家ではない多くの人と社会関係を築き、実社会の
多様な環境の中で機能を発揮していかねばならない。第四に、カウン
セリングはしばしば既に長期にわたって虐待のような外傷的イベンツ
に曝されてしまった患者に対して、事後的に介入することでしかない。
 これらの諸問題は、カウンセリングの専門家を中心とするカウンセ
リング制度の確立も重要ではあるが、同時にカウンセリングの専門家
では決してない社会一般という要素が極めて重要であることを示して
いる。自然災害はともかく、戦争の勃発や犯罪率は社会・経済・政治
と深く関係することであるし、患者が最終的に向き合わねばならない、
また患者を最終的に受け容れねばならないのはカウンセラーではなく
社会の一般的成員である。患者はPTSDの発症時からカウンセラーと
接触を持っている事などあり得ず、新たに患者となってしまった人と
最初に接触しているのは社会の一般的成員である。また、家庭内暴力、
児童虐待の例では家庭という牢獄の中で患者は家族という最小の社会
にして加害者とのみ接触を持っている場合がある。これらの人々が
少しでもPTSDについて知識を有しており、あるいはせめてPTSDの
加害者になってしまわないだけの社会能力を持っていたなら、これ
ほど素晴らしいことは無い。

 社会一般がPTSDを含む心の問題についていま少し深く知っている
こと、あるいはせめて自らがPTSDを生み出す犯罪加害者にならない
だけの社会能力をもっていることが好ましい。そのために具体的に
何が必要か、社会学・社会思想・哲学的側面からいくつか提言を行う。

 第一に義務教育課程に異常心理に関する基礎的な教養の教授を含める
べきである。鬱病やPTSDの発症率の高さを考えれば、自らがより良く
生きるために、あるいは人生において関わる他者の生をより良いものに
するために、社会をより良くするために、最低限の教養として知って
いるべき知識ではないだろうか。
 第二に、義務教育課程に対人関係に関する基本的な技能の教授を含める
べきである。「対人関係に関する基本的な技能」にはRape Mythの否定、
暴力的手段に訴えない感情表出のトレーニング等を含む。

 これらの提言は背景にいくつかの思想的転換・認識の改定を持つ。
第一に、学校という場についての認識を改めねばならない。国家教育の
中に位置づけられる学校は、元来は国家のために奉仕する国民を創出
するため、国防と密接な関係を持ちながら、近代国民国家の成立過程に
形成された制度である。しかし今日学校は、国際情勢の変化、および
新しい国際社会の倫理に基づき、地球規模から地域共同体に至る様々な
階層の公共性に参与する個人として、一人一人の人間が自己実現して
いける、その基礎を与える場として再整備されなければならない。
翻って現在の小学校が国語・算数・理科・社会に重点を置き、道徳・
図画工作・体育などには比較的少ない時間しか割かないのはなぜか。
これらの教科が元来国民の結束を固め、生産性・軍事力を高めるのに
資する教科であったため、古くから重視されていた、その慣習を無批判
に継承してしまったものではなかったか。学校はある程度産業社会の
ための知識を犠牲にしても、個々人の幸福を確実に上昇し社会を豊かに
する知識の教授を行うべきである。
 第二に、核家族化の進展・地域共同体の崩壊がもたらす帰結に着目する
必要がある。核家族化や地域共同体の崩壊が人間関係の希薄化を生み、
子どもが人間関係を学ぶ場を奪っているという議論はよく耳にするが、
そうであれば人間関係を学ぶ場を確保せねばなるまい。ひとつの方向と
しては失われたものを取り戻す試みであり、地域共同体の回復を図る試み
は各地で為されている。しかしもうひとつの方向として学校を人間関係を
学ぶ場として活性化する試みも積極的に行われて良いはずである。
 第三に、教育観の根本的改変が関与する。以上に述べた二点はいずれも
学校の負担を増すものであり、ただでさえ指導要領の消化に汲々として
いる教育現場を無視するものであると言われても仕方がないものに見える
であろう。しかし教育の本来の目的は何かと考えれば、あらゆる教育の
目的はただ一つ、必要な技能を身に付けさせ、それ以上の教育の必要の
ない独立した人間を生み出すことなのである。すなわち教育の意味とは
教育の無意味化なのである。現在の学校教育が指導要領の消化に汲々と
せねばならない理由の一端は、この教育の本来の目的を履き違え、一から
十まで手取り足取り教えようとしているところにあるのではないだろうか。
初等教育において、より基礎的な思考力に重点を置いたトレーニングを
行うと同時に、比較的早い段階で異常心理に関する諸問題を含む社会問題に
ついて教授し、考える材料を与えることが、かえって学力の底上げにつながる
可能性があるのである。
 第四に、人間関係を円滑に処理する能力をある部分まで学習可能な「技術」
として捉え直すことである。現在広く流布している考えにおいては、人間関係
とは心と心の関係であり、技術やテクニックの問題ではないと考えられている
部分がある。そこでは人間関係をテクニックと捉えることは冒涜的なことの
ように思われるであろう。しかしこれは「心」というものを聖化する考えの
一種であり、必ずしもぜったい妥当な考えというわけではない。むしろ教授
可能な技術と捉え直し、義務教育の中に組み込むことで社会関係全般の円滑化
が図れるなら、PTSDの予防・軽減に役立つのではないだろうか。

 ただし、上記の義務教育改革は慎重に、充分に調査を重ねつつ実行される
べきである。精神疾患と言うよりパーソナリティーに含まれるような部分を
まで否定するのは誤りであり、人間関係構築に関するヒントを与えるといった
考え方が好ましいのではないだろうか。
(後述:この最後の記述は「ややはにかみ癖があり引っ込み思案」といった
個人の性格に属するようなことまで「そんな様子では対人関係が円滑に構築
できないぞ」と否定することを戒めたものらしいが、ここにはどこまでを
介入すべき問題と見なし、どこからをそのままでよい個人の性格と見るか、
非常に難しい問題が潜んでいる)