IV. 和訳に関する問題

 最後にシェイクスピアを翻訳で読むことの限界について、岡村俊明
氏の著書『シェイクスピアを読む』に沿って、軽く触れておきたい。

 岡村氏がその著書に提起した翻訳の困難は、以下の四点にまとめられよう。

1言葉遊び、洒落の翻訳
2抽象語の翻訳
3造語の翻訳
4新しい比喩・新語義語の翻訳

 1,3,4に関しては、改めて確認するまでもあるまい。2の項目
だが、以下の二つの和訳、及び原文をご覧いただければ理解していただけよう。

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いま、地上の半ばでは、自然は死んだように眠っている、その帳に
包まれた眠りを、邪な夢がたぶらかす。魔女達は青ざめたヘカティー
に供物をそなえる。そして、痩せさらぼうた人殺し役が、見張りの
狼に起こされて、こうして抜き足さし足、ルクレースを手ごめにした
タークィンよろしく、獲物に向かって、もののけのように忍びよる。
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            いま、世界の半分は
〈自然〉が死んだように見える。恐ろしい夢が
カーテンを閉じた眠りを乱す──魔女達が
女王ヘカテに捧げものの最中だ。痩せた〈虐殺〉が
見張り役の狼によびたてられ
──その吠え声が合い言葉──こんな風にこっそりと
陵辱者タークィンの足どりで、獲物をめざして行く、
まるで亡霊のように。
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Bell's edition of Shakespeare's plays (Volume I) 1774
出版者 London : Cornmarket Press
出版年 1969

          Now o're one half the world
Nature feems dead, and wicked dreams abufe
The curtain'd fleep : now witchcraft celebrates
Pale Heccat's offerings : and wither'd murder,
(Alarmed, by his fentinel, the wolf,
Whofe howl's his watch) thus with his ftealthy pace,
With Tarquin's ravifhing ftrides, tow'rds his defign
Moves like a ghoft.

マクベスのダンカン王殺害のシーンで、最初の訳が福田恆存氏によ
るもの、二番目がシェイクスピアをイコノロジーによって分析せん
とした岩崎宗治氏の著書『シェイクスピアのイコノロジー』に掲載
されていた断片的な訳である。後者は便宜上おこなった訳で、さほ
ど日本語としての表現に凝っているわけではないが、こうして読み
物としての完成を目指した翻訳家の訳と併置すれば差異が歴然とす
る。英文中"murder"が抽象語で、後者の文中にある〈虐殺〉が直訳、
前者の「人殺し役」が意訳である。
 翻訳で読むのはどうしても限界があるが、しかし原文は原文で、
平均的な英語圏の人々にとってすら充分難解だという。研究をした
いというのでなければ、シェイクスピアを原文で読むことはなかな
か勧められない。
 日本での翻訳は明治期・坪内逍遙の全訳に始まり、現在では筑摩
書房版(複数の訳者が得意分野を担当)、白水社版(小田島雄志訳
1973~1980刊行 原文に忠実・上演に適した現代日本語のリズム
を摂取している)、新潮社版(福田恆存訳 1971刊行 格調高い
日本語が特徴)などがあるという。
 その他明治から現在までに岩波書店・講談社・中央公論社・文藝
春秋・思潮社・平凡社・創元社・NHKサービスセンター・早稲田
大学出版部等が抄訳を出版しており、無論多くの言語に翻訳され、
原語でもオックスフォード大学・ハーバード大学の出版部・多数の
民間出版社が出版している。

さて、上記の全集の特徴に関しては前掲書『シェイクスピアを読む』
から引用し、私は専ら福田氏の訳のみを頼りにしたが、ここに新潮
文庫版シェイクスピア選集に奇妙な点がある。なぜか『ロミオと
ジュリエット』のみが福田氏ではなく中野好夫氏の訳になっている
のだ。そこで全集に収録されている福田氏の『ロミオとジュリエッ
ト』と比較したところ、顕著だったのはジュリエットの乳母の口調
の違いであった。中野氏の乳母はいかにも無教養にして猥雑を好む
憎めない老婆といったイメージが生き生きと伝わってきたが、福田
氏の乳母は名家の令嬢に仕える者らしく、ある程度礼節をわきまえ
た口調であった。慣れもあろうが、私は中野氏の訳が好みに合う。

また、福田氏は日本人の読者が一読して理解できるよう、例えば日
本人に馴染みのない神話の登場人物がでたら、「ルクレースを手ご
めにしたタークィン」という具合にさり気なく説明を入れるのに対
し、中野氏はまず原文通りに書いて、注で補足するという方法を
とっておられる。前者の方が総じて読みやすいが、後者は原文につ
いてより多くを知りうる喜びがあり、どちらが良いとは決めがたい。

より訳者に注目して、その違いを見るのも面白かろうか。