III. シェイクスピアの精神の遍歴

ごく簡単に、シェイクスピアがどのような精神構造の持ち主だった
のか、想像をめぐらせる。

 まず最初にシェイクスピアの傾向として指摘したいのは、彼が人
間をいささか木偶扱いする傾向があるということだ。自由な意志で
動くというよりは、ある一定の型に沿って行動を展開してゆく存在
として捉えている。
 これは彼の人間に対する根本的な態度と切りはなしては考えられ
ない問題であるといえる。即ち、彼は人間をまず観察し、その中に
警句・諺のような一定の法則性を見出し、その法則によって人間を
読み解く。これは前近代ヨーロッパに共通の姿勢かも知れないが、
とにかくシェイクスピアにおいてはそれがはっきりと現れている。
そこでは悲劇は、その原因が陰謀であろうと運命であろうと性格で
あろうと、法則に従って起こってしまうのであり避けることはでき
ないのだ。また人間の交流する舞台を分析的な視点から組み上げる
ため、『オセロー』のイアーゴーや『空騒ぎ』のドン・ジョンなど
は、陰謀で他人を陥れる機能として創造されており、人間としての
全体性に欠けている。まずは登場人物を置き、その交流を一つの実
験のように行う現代演劇とは姿勢が根本的に異なる。このような姿
勢は『リチャード三世』に既に見られ、終生変わることがなかった
ように見える。
 シェイクスピア自身もまた、禍々しい運命に操られる木偶の一人
に過ぎなかったのであろう。ゆえにリチャード三世では劇を支配し、
進行する存在を生み出すことが出来ない。マーガレットさえ憎しみ
を増幅する法則に従って自己の呪いを盛り上げていく、計画された
登場人物でしかない。
 四大悲劇に共通するのは、そのいずれにおいても主人公が自己の
内面に沈降し、その中でいわば自ら耐え難い悲劇を生み出していく
ということである。ハムレットは叔父の不正を嘆くが、王位簒奪の
事実をのぞけば、ハムレットにとってもデンマーク国家にとっても
さほど困難な状況ではない。ハムレットにとって叔父が王位につい
たからとて現状では廃嫡されるという差し迫った危険もなく、むし
ろ大臣ポローニアスが殺された後の叔父クローディアス王のうろた
えようを見れば、おのれ一世の春を謳歌した後は、ハムレットに王
位を譲る気さえありそうである。また悪政といえばノルウェイの
フォーティンブラスが力を蓄えており、これに有効な対処ができな
いという可能性があるが、それも可能性の段階であって、ハムレッ
トはポローニアスを愚弄する暇があるなら国事に参与すればよい。
マクベスは王暗殺の前から幻覚を見るほどにその行動の罪深さを意
識しているが、君主の弑逆などどこにでもある話であり、殺して
奪った王位に納まりかえって天寿を全うする者はいくらでもいる。
またマクベスは己が殺される可能性に恐れおののいてバンクォー殺
しを急ぐが、戦場で幾度となく死の矢面に立ったはずの猛将マクベ
スが何としたことか。これも己のなかに作り上げた恐ろしい死のイ
メージに取り憑かれ、自己の内面に沈没してしまった姿と言える。
オセローは本来外向型の人格の持ち主であろうが、キャシオーとデ
ズナモーナという最も親しい他者から切り離され、秘密裏というイ
メージに捉えられてイアーゴーとの閉じた精神世界に誘い込まれる。
またデズナモーナへの愛こそがオセローを行動から遠ざけ、自己の
内面への沈降を強いたとも考えられる。大切に思っていたからこそ
失ったときの傷は大きく、次に続く行動も大きなものになる。また
疑いを持った後であっても愛の深さには変わりが無く、それ故にオ
セローは幾度も疑いが濡れ衣ではないかと思い描こうとして行動を
抑え込むし、また脅迫観念的に濡れ衣でない場合のことをイメージ
し、そのイメージに自ら捉えられている。リア王は無論のこと、
コーディーリアの返事のなかに親に背く子を描き、ゴネリル・リー
ガンの言葉に絶対許容不可能の罪悪を描き、外部情況を把握して善
後策を練るよりも受けた傷の深さを繰り返し確認し、その度に被害
者意識を盛り上げ、そうして生み出した自己の中に沈降して発狂に
至る。彼らの経験する事は、その経験主体によってはまったく問題
にならないものだとも言える。それを悲劇に転じてしまうのは、ひ
とえに彼ら主人公の内面世界に沈降した精神が見る脅迫的なイメー
ジに他ならない。自己のなかに沈降するとき、我々の目に映る悲劇
は対応する実体を離れて無制限に巨大化する。しかし彼らにそれ以
外の可能性はあたえられていない。彼ら自身がシェイクスピアの計
画に沿って行動する主体でしかないのであり、しかも彼らの周囲に
いる人々もまた、彼らと同じ木偶であり、運命の歯車でしかないの
だ。それは喜劇時代から変わらぬ彼の人間観であったが、この運命
が悲劇時代には常に禍々しいイメージを伴うようになってゆく。こ
れが悲劇時代の暗さの正体といえようか。 悲劇時代を通じてずぶ
ずぶと沈降を続けたシェイクスピアも、『アントニーとクレオパト
ラ』あたりで価値観の転換を開始する。コリオレイナスの死はハム
レットやオセローの死と比べて、後に残る難しさがない。ハムレッ
トの死は残された者に多くの考えるべき課題を突きつける死だし、
オセローの死は一人の高潔な、妻を心の底から愛する武人が、実に
容易に嫉妬に囚われ没落していったことを描いて慄然たるものを残
す。しかしコリオレイナスは、単に気位が高いがために身を滅ぼし
たというばかりで、己の愛に殉じたロミオとジュリエットを思いだ
させるような所もある。気位高くして屈することを知らず、それが
故に死す。またよからずや、といったところがある。
 しかし、これは禍々しい運命を変える力を人間のうちに見出した
からではない。相変わらず禍々しい運命の力はコリオレイナスに死
をもたらす。ただ、異なるのはもはや禍々しい運命を嘆かなくなっ
たと言うことだ。悲しみはするが、それを受け入れ、抗議すること
をやめた。
 さらにロマン劇時代に入り、ペリクリーズから冬の夜話にかけて、
詩人はどうやら運命に翻弄されて崩れ行く幸福が、再び調和の中に
復活するという物語を求めていたようだ。しかしこれらの作品にお
いて、調和が戻るのは飽くまで偶然による。それが『あらし』で
一変する。
 『あらし』において、シェイクスピアは完全に運命に逆らうのを
やめ、受け入れることで自らが調和のとれた世界の歯車の動因・運
命と一体化する。ここにプロスペローは誕生する。プロスペローは
崩壊した幸福を背負っているが、それを回復させようとしたり、そ
れに対してどこまでも復讐することを誓ったりはしない。復讐とは
言っても髪の毛一本傷付けはせず、しかも敵の息子と己の愛娘の結
婚を、その始めから許していたような所すらある。アントーニオー
とセバスティアンがナポリ王アロンゾーを暗殺しようとするくだり
もあるが、彼等は結局おとがめ無しに終わる。清濁も悲喜も併せ呑
み、運命と共に生きる。そんな世界が『あらし』において提示され
てはいないか。

 プロスペローの島に響く音楽の喜びと、それが突然止んでしまう
悲しみ、それはそのまま人生の喜びと、それがふいに去る悲しみを
思わせる。その音楽に陶酔したり、突然止んだことに涙したりしつ
つ、いつまでも支配者=運命のプロスペローの命令に従って、時に
は反抗したりしつつ島に生き続けている醜い怪物キャリバン、これ
は我々人間自身ではないか。
 シェイクスピアが四大悲劇を創作した頃の巨大なエネルギーは、
この頃には既に感じられない。しかし詩人は一つの港に辿り着いた
のだ。彼の晩年に彼の名前と切っても切れないグローブ座が焼失す
るが、彼はその知らせを、どんな気持ちで聞いたのであろうか。