※ここではシェイクスピアの作品のうち、新潮文庫に収録された作
品を中心に、同文庫の「解題」「解説」を参考に製作年代、当時の
出版事情と定本、製作の種本となった他の作品、および各作品の雰
囲気、テーマ、込められた思想などについてまとめる。
22. 『リア王』
(1) 概観
四大悲劇の一つ。全てを失った老王リアが白髪白髭を振り乱して
荒野を駆けめぐる衝撃的なシーンを一つの頂点として、虚飾を排し
た世界の本質に肉薄する。
(2) 作劇年代
本作の製作年代を類推する手がかりとしては1607年末の作品登
録、1606年末の宮廷での上演記録、1606年はじめの、明らかに
本作の一部を模倣したと思われる戯曲『蚤』の初演記録などがある。
文体や他の作品の執筆年代とも考え併せて、製作年代は1604〜1606
年初頭という推定が成り立つ。
しかしここに種本をめぐる、いささか珍妙な事実がある。シェイ
クスピアの『リア王』に関しては明らかに種本と考えられる作品が
現存しており、題は同名の『リア王』作者は不明である。これを
『原リア』と称するが、『原リア』ははじめ1594年に出版はせぬ
ものの作品登録は済ませてあったものが、1605年なかばにスタ
フォードなる人物によって再度作品登録され、このときは出版され
ている。その時の登録文中に「最近上演した」とあり、また出版さ
れた本の扉にも「最近しばしば上演された」とある。最初の登録の
時には出版されず、初演以来上演記録も残っていない作品が、この
頃になってしばしば上演されるようになったというのであろうか。
さらにはこの作品は「悲劇」と銘打ってあるが、内容を見るとリア
は王位に復し、コーデラ(コーディーリアに相当)も死なない。当
時は主人公が非業の死を遂げなければ悲劇とは言わなかったが、そ
のような形式的基準を持ち出さなくとも、現代の我々の感覚からも
悲劇とは言えない。むしろ、めでたしめでたしである。
これらから類推できることは、『原リア』の版権者がシェイクス
ピア『リア王』の成功を見て『原リア』を「最近上演」などと適当
な文句を付し、いかにも最近完成し、上演中の人気作『リア王』の
ように見せかけ、取り違えて購入する慌て者を期待したのではない
かということである。いかにも尤もらしい類推だが、この類推はも
う一つの仮定を必要とする。シェイクスピアが『リア王』執筆に当
たって『原リア』を参照したことは明らかであり、しかし『原リア』
が初めて出版されたのは『リア王』の成功の後ということになると、
シェイクスピアは出版されない戯曲を、原稿や台本の形で手に入れ
ていたと考えなければならなくなる。出版物を入手する場合に比べ
て蓋然性に欠けるが、初演以来再演もされない戯曲の台本を、当時
シェイクスピアが属した侍従長劇団がいずれ手を入れて上演するた
め保管しており、それがシェイクスピアの手でなされたと考えれば、
『リア王』完成後に侍従長劇団にとっては何の意味もなくなった『原
リア』をスタフォードが入手するのは容易であろうと推測される。
なにも確たる証拠のないことだが、この類推が当たっていれば、本
作の完成時期は一年から半年ほど遡ろうか。
(3) 出版事情・定本
決定的な信頼できる版が存在しない上に、その版の種類が余りに
多いため、本作の定本作成は困難を極める。まず古刊本は1608年
出版の第一四折本、1619年出版の第二四折本(ジャガード版)、
1623年の第一二折本が存在し、第二四折本は第一四折本の再版、
第一二折本も大体は第一四折本に基づいているらしい。従って全て
のもととなった第一四折本が重要というわけだが、この第一四折本
が、シェイクスピアの原稿や信頼できる台本から起こされた物であ
るという証拠がないのだ。だからといって海賊版の悪本と信ずるに
は出来がよすぎ、如何なる由来の版なのか、ドーバー・ウィルソン
も首をかしげている様子が、福田恆存氏の新潮文庫『リア王』解題
から窺われる。
さらに第一四折本が難しいのは、この版で現存する十二冊のうち、
三冊を除いて、後は全てどこかしら他の本と違っているという点で
ある。これはどうやら印刷作業が始まった後にも校訂作業が行われ、
順次版が更新されたためらしい。しかも校訂の入ったページと入ら
ないページが無作為に綴じ合わされたため、ある本は多く校訂が入
り、ある本はあまり校訂が入っていないというだけの単純な話では
すまされない。
第二四折本は『夏の夜の夢』の項で軽く説明したジャガード版の
自称「全集」に収録された物で、その元になった第一四折本は第一
二折本の元になった物より多く校訂が入っているようだが、ジャガー
ド版の編集姿勢を窺わせるというべきか、校訂者が誤植を見逃すば
かりか、元原稿を確認せずに憶測に基づく校訂を加えたりしている。
一方の第一二折本は元原稿が校訂を経ていない部分が多いとはいえ、
単なる再版ではなく、第二四折本や当時の後見用台本まで参照して
いたことが明らかになっている。
第一四折本(及び、その再版たる第二四折本)と第一二折本を比
較すると、前者に300行、後者に100行ほどの、もう一方の版から
は脱落している行が含まれる。(第一二折本の脱落が多いように見
えるが、これについては「当時は省略して演じられていた」「検閲
で削除せざるを得なかった」などの意見があり、第一二折本への信
頼を損なう物ではないらしい)結論としては、十種の第一四折本と
第一二折本を比較・検討していずれを取るか決め、場合によっては
両者に共通する誤りを見つけ出しつつ定本を作成することになるら
しい。
(4) 種本となった作品
本作に影響を与えた作品は、先述の『原リア』を含めて七作品ある。
すなわち下記の七作品だが、うち(1)〜(4)がリア王物語で(5)
はグロスター親子に相当する話が含まれる。(6)(7)は思想、語の
用法、名言名句の類で直接的な影響が見られるという。
(1)作者不明『原リア』
(2)ホリンシェッド『年代記』
(3)スペンサー『フェアリー・クイーン』
(4)ヒギンズ『君主のための鏡』
(5)シドニー『アーカディア』
(6)ハースネット『宣言』
(7)モンテーニュ『随想録』
四つのリア王物語と本作の関係だが、福田恆存氏は(2)〜(4)に
関してはコーディーリアの最後についてしか触れていない。(2)(4)
は短剣、(3)は首をつってそれぞれ自殺することになっており、他殺
はシェイクスピアのみである。またシェイクスピアの『リア王』に直接
の影響を与えた『原リア』に至っては、先述の通りコーデラは死なない。
シェイクスピア『リア王』と『原リア』の差異について福田氏の記述
を参考にまとめると、以下のようになる。
(1)『リア王』で常に指摘されるリアの怒りについて、『原リア』で
は末娘が「身分が高くとも愛のない相手と結婚はしない」と王を悩ませ、
それが王が三姉妹の愛を確かめる動機となっており、姉達より愛がある
なら王の眼鏡に適う者と結婚せよと迫るつもりが、末娘が意に反する返
答をしたため激怒したとなっている。まだ理解できると言えよう。
(2)『リア王』裏切られたリアは常識を越える怒りに発狂するが、
『原リア』のリアは常識的な反応を示し、嵐の荒野を駆けめぐりもせず、
理性を保ち王位に復帰する。
(3)コーディーリアは死なない。
(4)道化は『リア王』で初めて登場する。
(5)『原リア』ではケント伯に相当する人物が追放されない。
(6)『原リア』にはグロスター物語は存在しない。
(1)(2)の改変は言うまでもなく、リアをして単なる娘に背かれた
父親から虚飾をはぎ取ったこの世の本質に目を開く人物へと変貌させた、
その鍵である。(3)(5)は今さら確認するまでもなく、そのままであ
ろう。(4)の道化と(6)のグロスターだが、彼らは劇として必要な機
能を果たしている。すなわち道化はリアを徹底的に風刺することで、よも
するとコーディーリアに不当な怒りを浴びせかける愚か者として観客の笑
いを浴びかねないリアについて、その笑いを先取りしてリアの厳粛を維持
する機能を果たしている。またグロスターだが、まず副筋の導入は時間の
経過を飽きさせずに観客に感じさせるのには有効な機構ではないだろうか。
リアの継続して深まる狂気を全て見せるのではなく、その要所要所を見せ、
後は副筋を見せている間に舞台裏で進行させ、そうして観客に時間経過を
自然に感じさせることができる。またリア自身の鏡像のようなグロスター
伯を副筋に選んだと言うことは、正にリアの苦しみをさらに観客席に突き
つけようがためであろう。一人の配役に余りに多くの悲劇を負わせるわけ
にはいかない。それを無理に試みれば、許容しがたいほどの不自然さを産
み出しかねない。しかもその不自然は、ともすれば『モダン・タイムズ』
におけるチャップリンのように、笑いを引き出す破壊の力となりかねない。
それを分担し、狂気に陥らずに理性を保ったまま喪失と向き合うもう一人
のリア、別の道を歩むリアを、シェイクスピアは用意したのではないか。
リア王が天に挑むように荒野を駆けめぐって発狂するのに対し、もう一人
のリアは理性を失わぬ代わりに運命に打ち倒され、もはや死を選ぶことし
か思いつかない。
(5) 雰囲気・テーマ・思想(四大悲劇について)
※原稿断絶