II. 作品詳説

※ここではシェイクスピアの作品のうち、新潮文庫に収録された作
品を中心に、同文庫の「解題」「解説」を参考に製作年代、当時の
出版事情と定本、製作の種本となった他の作品、および各作品の雰
囲気、テーマ、込められた思想などについてまとめる。

21. 『オセロー』

(1) 概観
 高潔な将軍オセローと美しく貞節なデズナモーナの至純な愛が悪漢
イアーゴーの奸計の前に狂いを生じ、次第に破局へと滑落してゆく。
四大悲劇の他の作品が全て一国の王位をめぐる物語なのに対し、筋の
うえから言えば唯一の家庭内悲劇ということになる。

(2) 作劇年代
 大膳職年間行事録に1604年11月1日(万聖節=ハロウィン)国王
劇団(1603年以前の侍従長劇団)によって『ヴェニスのムーア人』
が上演されたとあり、これが『オセロー』の副題である。これによっ
て『オセロー』の製作が1604年以前であることは明らかだ。また同
年デカーと、『魔女』を書いたミドルトンの二人の劇作家が共作で
『正直な娼婦』なる作品を書いており、その中に妻殺しを非難する
言葉として「ムーア人より残酷だ」という台詞が登場し、『オセロー』
が同年春頃までには一般上演されていたことを想像させる。さらに
1603年刊行の『ハムレット』の海賊版、第一四折本にオセローが世に
知られていたことを示す言葉が数回に渡って登場することから、初演は
更に古くなって1603年春以前となる。結局ウィルソンが下す結論は、
1602年頃に制作されたものであろうというもののようだ。

(3) 出版事情・定本
 作者生前には刊行されず、死後の第一二折本と、その前年に出版さ
れた第一四折本が古刊本ということになる。このどちらがシェイクス
ピアの原稿に近いかという点だが、大抵の校訂者が第一二折本を優位
におく。第一四折本は上演のために場面をカットし、編集した劇場用
台本の、しかもごく不注意な写本をもとに印刷されたらしい。一方の
第一二折本は、どうやら第一四折本を作者自筆に近い信頼できる原稿
と照らし合わせて、訂正を加えたものらしい。
 ここに原本制作者、植字工、校正者の無意識のミスに、不穏当な語
句の意識的削除などの可能性を加味してウィルソンは『新シェイクス
ピア全集』を編纂しており、最新の研究成果を反映させたところ、そ
の内容は従来のそれと細部で異なる部分が比較的多くなったという。
裏を返せば、『オセロー』に関しては他の作品より古刊本があまり信
頼できないということか。

(4) 種本となった作品
 本作の素材ははっきりしていて、1566年ヴェニスで刊行されたツィ
ンツィオの『百物語』に収録された散文の物語にムーア人の将軍とデズ
ナモーナという妻の悲劇があり、腹黒い旗手の存在、デズナモーナとの
関係を疑われる隊長、ムーアが妻に贈るハンカチーフなど、多くの素材
が出そろっている。同書はイタリア語であり、1584年に仏訳が、1753
年に英訳が刊行されている。シェイクスピアがこの物語に触れているこ
とは間違いないようだが(確かに『百物語』が本作の直接の種本である
と言いうる証拠も、『百物語』と本作の間に他の作品が介在する可能性、
あるいは『百物語』と同源の他の作品が本作の種本になっている可能性
についても、福田恆存氏の新潮文庫『オセロー』解題には触れられてい
ない)彼がイタリア語を解したとは思えず、フランス語も堪能であった
か疑わしいことから、今は失われてしまった英訳が存在したのではない
か、あるいはイタリア語やフランス語で『百物語』を読んだ人に詳しく
話の筋を聞いたのではないか(例えばシェイクスピアはサザンプトン伯
を通じて知り合った知識人から、モンテーニュの懐疑論を学んでいる)
など、様々な憶測がなされている。
 仮にこの『百物語』がシェイクスピア作『オセロー』の直接の種本で
あったとして、シェイクスピアが変更を加えた点は以下の通りである。
(フランク・カーモンドー、トマス・ミュアらの編集によるアーデン版
シェイクスピア全集付録に『百物語』中の問題の作品が大部分英訳のう
え収録されており、その一部を福田氏が日本語に訳して前掲書解題に収
録しているので、それを参照してレポート作成者が纏めた)

(1)『百物語』では登場人物はイアーゴーの妻に至るまで美男美女の
大盤振る舞いだが、シェイクスピアは登場人物に俗っぽさを加味している。
(2)旗手がムーア将軍を罠に掛ける動機が、『百物語』ではデズナモー
ナへの横恋慕がねじ曲がって彼女への憎しみに変わったと明示されている
のに対して、シェイクスピアでは副官職の人事に関して恨みを述べたりし
ているものの、どうもはっきりしない。
(3)『百物語』の旗手が偶然に頼って陰謀を進めるのに対し、シェイク
スピアのイアーゴーの方が策略を自ら準備する部分が大きい。
(4)シェイクスピアでは『百物語』には登場しないロダリーゴーという
人物がイアーゴーの奸計に利用され、命を落とす。
(5)『百物語』では、デズナモーナ殺害は撲殺の上、腐った梁を落とす
という方法がとられ、事故死として処理される。シェイクスピアはこれを
絞殺に変え、その罪もすぐに露見するようにした。
(6)『百物語』のムーア将軍は結局妻を殺したことで錯乱状態になり、
旗手を免職にする。旗手はムーアの罪を告発し、ムーアは国外追放の上、
デズナモーナの親戚に殺される。旗手もやがて事が露見し、拷問死する。
しかしシェイクスピアではオセローは己の過ちを知ると、デズナモーナを
追って自ら自害する。イアーゴーの死は描かれない。

 (1)はシェイクスピアの得意とするところで、美男美女と銘打った
のっぺらぼうより遙かに劇の魅力は大きい。(3)(4)は『百物語』
の旗手よりシェイクスピアのイアーゴーの方が、悪役として一枚上手と
いう印象を与えるが、同時に(4)のロダリーゴーなる人物が、『百物
語』では旗手のものであったデズナモーナへの横恋慕を代行している点
に注目したい。すなわちイアーゴーは恋愛感情を剥奪されているのであ
り、(2)の無動機性や(3)(4)から生じる狡猾さ、(6)の死の
不在と相まって、イアーゴーの非人間的なイメージを強めている。(5)
(6)からは言うまでもなく、まっすぐに愛に生きたオセローの高潔を
効果的に描くと共に、デズナモーナの死を劇的に演出している。

(5) 雰囲気・テーマ・思想
 福田恆存氏は二三の理由を挙げて『オセロー』が過当な評価を受けて
いると指摘している。すなわち、まずオセローは他の悲劇の主人公がも
つ悲劇的性格が見られず、自己の内面から行動を引き出して自ら劇を推
進してゆく力に欠くという。むしろ本来は外部からの必要に対して現実
的に対応を返すような人物であり、代わりに劇の主導権はイアーゴーが
握っている。その主導権をオセローが初めてその手に握るのはデズナ
モーナを殺して己も自殺する時であり、しかもまさにその時イアーゴー
の奸計は完全に成功するのだ。さらに言えば、オセローはいつでもデズ
ナモーナに不義の事実を問いただすことによって劇の推進役になれるの
であり、にも関わらず行動を起こさない。ハムレットにも同じ事が言え
るが、ハムレットに下手に動けば危険であるという名分があるのに対し、
オセローにはそれもない。他に指摘している点はこの悲劇的性格の欠如
に関係したことだが、ひとつにはオセローは台詞が少なく、最後の台詞
のみを除いて、オセローは己の言葉によって己を動かすということを知
らない。またふたつ目として、四大悲劇の他の三作品、ことに『リア王』
が顕著にもっている、世界の本質を見つめる視点が欠けているという。



※この項、原稿が編集中の体で切れている。レポート提出時にどうしたのか、記憶にない。