※ここではシェイクスピアの作品のうち、新潮文庫に収録された作
品を中心に、同文庫の「解題」「解説」を参考に製作年代、当時の
出版事情と定本、製作の種本となった他の作品、および各作品の雰
囲気、テーマ、込められた思想などについてまとめる。
20. 『マクベス』
(1) 概観
雷鳴の中に魔女が出現するというおどろおどろしい場面に始まり、
続いて血まみれの将校の登場、惨憺たる戦場の描写、敵将を唐竹割り
に討ち取るマクベス、戦況の暗転、マクベスとバンクォーの反撃と凄
まじい描写が続いて血の海を思わせずにはいない。その戦闘が終われ
ば早くも魔女の予言によってマクベスは運命に絡め取られてゆき、マ
クベス最初の凶行であるダンカン王弑逆を実行せぬうちから、狂気に
冒されたかの如きマクベスの目には宙に浮く血塗られた短剣が見える。
全編を血と狂気のイメージが占め、四大悲劇中で最も集中性の高い作
品とされる。女の産み落とした者にマクベスは倒せず、バーナムの森
が押し寄せぬうちはその身は安泰と言われ、その二つの予言のみを頼
りに成立していたマクベスと運命の繋がりが最終幕で一瞬のうちに崩
れ去り、瓦解するマクベスの王位は見る者を圧倒して離さない。
ステュアート朝ジェームズ一世を意識した政治プロパガンダも含んでいる。
(2) 作劇年代
本作はドーバー・ウィルソンの手になる作品執筆年代ではハムレット
とオセロー・リア王の間に入っているが、完成年代では四大悲劇の最
後に位置するらしい。
『マクベス』上演の確かな記録として残っているものの最初は占星学
者シモン・フォーマンの観劇記で、それによれば1611年、グローブ
座でマクベスが上演されたという。じつは『マクベス』はシェイクス
ピアと同時代の劇作家で、劇『魔女』を製作したミドルトンによって
補筆がなされたとされており、フォーマンの観劇記録は、この補筆が
行われた後の初演であったろうと推定される。
では、それ以前にシェイクスピアが完成した時というものが無ければ
ならない。ドーバー・ウィルソンはそれを1606年に求める。『マク
ベス』が英国の新王ジェームズ一世に捧げられた物であることは、内
容からほぼ明らかである。問題は何の機会にジェームズの目に触れた
かという事だが、ウィルソンは1606年のデンマーク王クリスティア
ン訪英の際に歓迎行事で上演されたものと考える。その理由としては、
当時起きたイエズス会の僧ヘンリー・ガーネットの偽証事件を当て込
んだと思われる内容が、ダンカン王殺害の翌朝に門番が吐く台詞や、
マクダフ夫人とその子の会話に見出されるからである。
しかし、これで終わりではない。1606年に完成を見た台本は天覧用
に書き換えられたもので、それ以前に原形は完成していたのではない
かという疑いがある。その理由としては『マクベス』が四大悲劇のう
ちではいかにも短いこと、存在してもおかしくない場面の多くが台詞
によるさりげない言及で済ませられている点などがある。つまりは御
前での上演では時間の制約が厳しいため、もとは存在した場面を割愛
して代わりの台詞を挿入し、またステュアート朝ジェームズの王位を
賛美し正当化する内容を加えるなどしたものが現在伝わる『マクベス』
ではないかと思われる。では、シェイクスピアが『マクベス』に着手
した日付は更に遡る可能性ありということになる。
ウィルソンはマクベスとハムレットがいくつかの点で対称をなしてお
り、この両者が同時に創造されたものではないかと考える。福田恆存
氏の新潮文庫『マクベス』解題からウィルソンの言葉を孫引きするが、
ウィルソンはハムレットとマクベスの人物像を併置して「一方は決し
て始める事の出来ぬ男であり、他は決して打切ることの出来ぬ男であ
る」と述べている。この性格の対称性こそが最重要点であろうが、他
に『ハムレット』のクローディアス王がレイアーティーズを説得して
ハムレット殺害を勧めるやり口と、『マクベス』でマクベスが刺客に
バンクォー殺害を依頼するやり口が同じである。そして上記解題には
書かれていないものの、それが一方のレイアーティーズ説得では自然
だが、刺客への依頼としては不自然になっている。刺客といえば通常
は事件とは何の利害関係をも持たず、雇用されて殺害を遂行する者の
はずであるが、マクベスが雇用した刺客はマクベスに陥れられたと信
じており、マクベスはそれをバンクォーの差し金だと言って聞かせた
らしい。どういう縁の者か、唐突で何の説明もないが、作者がある意
図を持って両者に同じ場面を与えたのなら理解できる。初期の演劇で
遵守されていた演劇形式の対称性が、ここでは作品を超えて二篇の独
立した作品のうちに宿ったと考えればよいか。またクリストファー・
マーロウの『ダイドーの悲劇』から借用したと思われる表現が『マク
ベス』に使われており、『ハムレット』では、劇中劇として同作品と
おぼしき台詞が読み上げられるという事もある。こちらは『マクベス』
ではマクベスの戦いぶりを伝える言葉として有意味だが、『ハムレッ
ト』ではハムレットが役者にせがんで好みのシーンを語らせるという
形であらわれており、前後との繋がりもなく必然性もない。刺客説得
と逆に、『ハムレット』が『マクベス』に近づく形となっている。ま
た『ハムレット』の幽霊と『マクベス』の魔女は同じ役割を果たして
いるとも考え得よう。
これらをして「『ハムレット』と『マクベス』は同時に創作された」
と考えるならば、『マクベス』は『オセロー』『リア王』よりは前で、
ハムレットと同時期、1601年頃から書き始められて、1606年に完成
したのではないかという想像が成り立つ。
(3) 出版事情・定本
死後の第一二折本全集まで、出版はなされていない。従って目下の
ところ、これが唯一の古版本にして定本ということになろう。
(4) 種本となった作品
主にはホリンシェッドの『イングランド・スコットランド・アイル
ランド年代史』に依拠しており、マクベス夫人の性格に関してはステュ
アート家に伝わる『スコットランド年代史』にヒントを得ているらしい。
実際の史実として明らかになっていることは、ことマクベスに関して
は極めて少ない。1040年から1057年にかけて17年間王位を維持した
こと、確かに親戚の王ダンカン一世を弑逆し、後にダンカン一世の遺児
マルコム三世によって復讐されるが、系図に尋ねると、むしろダンカン
こそが簒奪者であることがわかる。マクベス夫人の先夫は本来王位継承
の有力候補であり、先夫とマクベス夫人の子はマクベスのもとで育って
いた。またダンカン一世の祖父マルコム二世から見て、マクベス自身は
甥に当たった。ダンカンに対して王位を主張するだけの権威は充分であ
る。またマクベス王はホリンシェッド『年代記』では、武勇に秀で、信
仰厚く、国王として立派な業績を挙げたといった簡単ながら好意的な書
き方をされているらしい。
シェイクスピアはここにいくつかの大胆な改変を加えて作品『マクベ
ス』を書きあげた。福田恆存氏著 新潮文庫『マクベス』解題を参考に
纏めるが、第一に十七年の治世を十ヶ月程度に短縮し、これによってマ
クベスの悲運を際だたせ、劇的効果を高めた。第二に、同じ処理でマク
ベスの王位が不当な脆いものであったという事を示している。第三に、
ダンカン王を名君中の名君に仕立て上げている。第四に、ホリンシェッ
ドにおいてはバンクォーもマクベス同様王位への野心を持っていた事に
なっているが、その野心はぼかされて見極め難くなっている等がそれで
ある。第四点はジェームズ一世を意識したものと見て間違いあるまい。
(5) 雰囲気・テーマ・思想
全編を満たす雰囲気によって見物を引きつけていく事のできる戯曲で
ある。マクベスは魔女たちの予言通りに地位を上げてゆくが、その始め
から既に精神に耐え難い負荷がかかり、マクベスの精神世界は刻々と乱
れ行く。スコットランド全体が狂気の国王に支配され、赤黒い空気に被
われ、恐ろしい呪いをかけられたかの如き印象を与える。エドワード懺
悔王の治める清浄の地イングランドとの対比が鋭い。バーナムの森が動
くのはイングランド兵が木の枝を体に付けて進んだからであり、女の腹
から産まれた者に殺されないとは、帝王切開で産まれたマクダフに殺さ
れる事の暗示。こう書けばそれまでだが、森が動くことはマクベスの非
道に、ついに自然も牙をむいたかのような印象をあたえる。またマクダ
フの言葉に狼狽したマクベスが自暴自棄に盾を投げ捨ててうちかかる姿
も圧巻である。四大悲劇中、最後に曙光のように訪れる新たな秩序の再
生が、最も美しく見えるのもこの作品であろう。